この20年で写真やビデオに対しての意識は大きく変化した。誰もが日常的にカメラを持ち歩いて写真や動画を撮影することが当たり前になったからだ。
それに伴って映える対象や場所をいつも探すようになり、自分が映った写真を見る機会も格段に増えた。そしてどのように見られるかという意識を誰もが持つようになった。その結果、世間のモノを見る目と見られる目がレベルアップしたのである。

観る、見られる、魅せる
文・中兼雅之/写真・望月勇輝
例えば、1台のバイクを目の前にするとき、人はそれを単なる移動のための機械として「見る」のではない。そこに注がれた作り手の意図や執念、積み上げられた物語を、自らの経験と照らし合わせながら「観る」。同時に、そのバイクは、常に誰かの視線にさらされることを宿命づけられた「見られる」存在であり、最終的には乗り手の生き様と溶け合い、独自の美学へと昇華される。すなわち「魅せる」存在となる。この三層構造の往復運動にこそ、芸術の本質が潜んでいるのではないだろうか。
「観る」とは、単なる受動的な視覚行為ではなく、対象から「意味」を編み上げる能動的な解釈である。対して「見られる」は、他者からの視線を意識した存在のあり方であり、表現の精度は研ぎ澄まされる運命にある。そして「魅せる」とは、その両者を統合し、意図的に設計された美学として社会へ提示する営みだ。
SNSの登場によって、この構造は劇的に可視化された。かつて限定的だった「見られる」状況は今や常時接続となり、誰もが発信者であり、同時に被写体となった。写真1枚、短い動画ひとつにしても、人は無意識に「どう見られるか」を設計し、「どう魅せるか」を試行錯誤している。
現在、「芸術」と「日常」の境界線は大きく揺らいでいる。バイクを駆ることやSNSでの発信といった日常の道具や生活の営みそのものが、表現としての芸術へと接続され、そのスケールを個人から社会へとかつてなく拡張している。
しかし、情報の洪水は「観る」力を希薄にした。流し見るだけの消費的な視線が増えれば、表現は表層的なものに留まる。だからこそ、対象の奥にある物語を深く「観る」行為は、現代においてむしろ希少な価値を帯び始めているのだ。
日本の芸術史を紐解くと、芸術とは常に流通と他者の視線を前提とした動的な関係性の中にあった。浮世絵は、高尚な一点物である前に、同時代の熱量を切り取る「記録媒体」であり、いわば当時のタイムラインでもあった。工芸品は「商品の極み」でありながら、その機能美の中に「魅せる」意志が宿る。日常の器に極限の美意識を込め、使うこと自体を鑑賞へと変えた。日本の芸術は、孤高の存在として隔離されるのではなく、日常と芸術を分断せず、生活の流れの中で完成されてきた。その点で西洋的な芸術観とは大きく異なるのだ。
この構造は、我々のアイデンティティにも当てはまる。自己とは固定された実体ではなく、「観る・見られる・魅せる」という関係性の中で更新され続ける動的な「作品」だからだ。世代間で差異はあるものの、時間をかけて意味を掘り下げるシニアの「観る」力と、他者の視線を前提に表現を設計する若者の「見られる・魅せる」感性は、対立ではなく補完関係にあり、結びついたとき、深さと広がりを兼ね備えた新しい領域へ進化し得る。

結局、人は他者と関わりながら、自らの存在を確かめようとする生き物だ。「観る」ことで世界に意味を見出し、「見られる」ことで自己の輪郭を知り、「魅せる」ことで他者との「共感」を生み出す。芸術とは、単なる技巧や装飾ではなく、人間が社会の中で自己を表現し、存在を更新し続けるための行為そのものだろう。
バイクやクルマは単なる工業製品ではない。作り手の意図と乗り手の物語が交差する結節点であり、機能と美、記録と表現が重なり合い、個人の美学が社会と接続する「触媒」だと思う。
芸術の正体とは、特別な場所にだけ存在するものではないし、特別な才能を持つ者だけのものでもない。人が他者と関わり、「観る・見られる・魅せる」という構造を自覚的に生きる、その姿勢そのものにこそ宿っている。その意味で、芸術と日常を分かつ境界線は、もはや存在しない。芸術は美術館の中ではなく、日常の中に存在しているのだ。
中兼雅之/Masayuki Nakagane

今のクルマ選びは「いいね」を必要とする
文・小沢コージ/写真・望月勇輝
先日若いバイク好きと話して驚いた。昭和のバイクに乗っている彼に「古いのが好きなんだ?」と尋ねたら「ちょっと違いますね。仲間が欲しくて買ったんですよ。友達欲しいんで」と照れつつも真顔だった。
その時、妙に腑に落ちた。ああ、今の世代のクルマ選びはこういう感覚なのかと。もちろん物選びはまず自分の欲望であり「欲しい」という気持ちが先に立つもの。幼少期に超合金ロボットやミニカーを求めた気持ちの延長線であり、自らカッケーと直感したクルマやバイク、ファッションを素直に追いかける。それが高かろうが入手困難だろうが関係ない。それどころか障害は逆に物欲を刺激した。
しかし大人になるに伴い、単純に「欲しい」だけでは物が選べない現実がわかってくる。自分の財力もあるし、センスや能力の問題もある。コイツは自分に似合うのか? 使いこなせるのか? さらになかなかやっかいな自分の「見栄」との兼ね合いもある。
見栄の大元は歌舞伎役者が十八番ポーズを決める「見得を切る」を語源とする。見栄は「他人の目」であり「人からどう見られるか」を気にした非常に人臭い行為だ。バブル期に大ヒット映画を飛ばしたホイチョイプロダクションが名著『極楽スキー』に極意を綴っているが、本当の上級者でなくとも「上手く見えるスキー板」を選び、ツウなリフト待ちポーズを考えて「人から達人に見られるためのノウハウ」を分析した。その見栄を張るための小賢しいテクニック集が実に切なくて面白かった。
とはいえ、これはこれで完璧ではない。見栄はやはり見抜かれるし、見栄を張り続ける空しさもまたある。とはいえ、今も昔も人間の物欲は果てしなく、そしてかつてのような「見栄」とは違う物選びが存在している。
それがまさに今の「承認欲求」に則った物選びなのだろう。元は心理学用語だったこの言葉は、SNS時代に爆発的に普及した。これは非常に日本人に寄り添った奥ゆかしい心理であり、文字通り「承認」=「自分はこういう人であると認められたい」心理を表す。
見栄と承認欲求は明確に異なり、なおかつ複雑だ。見栄は本来の自分よりも「少し上」に見られることを求めたが、承認欲求はある意味「等身大」であり、なにより「好意を持って」受け止められることを求めている。
ここには今のSNSの存在が確実に影響している。簡単に言うと沢山の「いいね!」を求めているのだ。それは人に羨ましがられると同時に、仲間意識であり、帰属意識の刺激という相反する欲望が盛り込まれている。
例えば小沢の高校時代の友人が、50代で会社を興して、ランボルギーニ・テメラリオを買ったとする。あるいは20代の新人女優と結婚したとする。それをインスタグラムやXで発表して「いいね!」が沢山付くかというと大いに疑問だ。ここが日本人のしみったれた心理で絶賛以上に嫉妬心が芽生える。羨ましすぎて見てみないふりをした人も出てくるだろう。いいね! は意外に付かないはずだ。
しかし例えば昔から欲しかった「いすゞ117クーペ」や高くても「空冷ポルシェ911」をレストアした。あるいは昔から好きだった同級生と結婚したら嫉妬は起きない。頑張ったなぁ、粘ったね! が殺到して祝福と同時に仲間意識まで両立できてしまう。今の日本人はそういう贅沢で傷つかない関係性を求めているのだ。
承認欲求とは「賞賛」と同時に「仲間として受け入れられる」ことも求める欲望だ。マズロー心理学における第4段階の欲求であり、賞賛されつつ阻害されてはいけない。そこには問答無用のビッグサクセスはいらない。
「孫が生まれた」「念願のエイジシュートを達成した」「憧れのロードスターを買った」。なんとも慎ましい夢だろうか。実に心優しい民族だと思う。ただし今後、世界的な大仕事はあまりできないという気もする。
小沢コージ/Koji Ozawa
「観る、見られる、魅せる」の続きは本誌で
「Gentleman’s Ride」に見た日本のライダーの姿 河西啓介
ブランドの哲学を知ると見方が変わる 吉田拓生
観る、見られる、魅せる 中兼雅之
今のクルマ選びは「いいね」を必要とする 小沢コージ
