「フェラーリ」や「ハーレー」は、ブランドイメージを大切にしてきた。
「コンセプトカー」は、イメージを増幅させる。「クラシックバイク」のイメージに憧れる理由とは何か。クルマやバイクの象徴的な事柄を深掘りしていくとイメージに辿り着く。

なぜクラシックバイクに憧れるのか
文/写真・伊丹孝裕
キーはポケットに入れているだけで差す必要も回す必要もなく、エンジンはボタンひと押しで軽々始動。アイドリングはすぐさま落ち着き、シリンダーもギヤボックスも暖気要らず。すべてのパーツがスムーズに摺動し、あらゆるおもてなしデバイスが乗り手をアシストしてくれる。2輪でも4輪でも最新モデルは扱いやすいことこのうえなく、それでいて速く快適だ。誰もが何不自由のないモータリングライフに飛び込めるというのに、60年以上前のクラシックバイクを求めて止まない人がいる。
気温や標高で調子が違う。恐る恐るキックすれば盛大なケッチンが待っている。エンジンに火が入るかどうかはちょっとした運試しの要素をはらんでいて、回転の上昇とシフトペダルの滑らかさが整うまで、たっぷり15分はかかる。ガソリンコックだけでなく、オイルコックを開かなければならないものもあるし、ティクラーでガソリンをオーバーフローさせなければならないものもある。走り出せば大体同じ? いや、シフトペダルが右足側に付いているモデルも珍しくなく、ハンドシフトを備えるものもある。

はい、どうぞと差し出されたところで一見では手も足も出ない乗り物。それがクラシックバイクの世界だ。走り出す手前からなんらかの修練を要し、いつもどこかが調整中で、ガソリン臭やオイル染みに敏感にならざるを得ない面倒くさい世界でもある。しかしながらそれは、知識と技術と経験でなんとかできる余地も多い。大部分にデジタルが入り込み、なにかあればアッセンブリー交換を余儀なくされ、劣化すれば修復が困難な樹脂パーツを多用する最新モデルとの差はあまりに大きい。
かつての雰囲気に浸れるネオクラシックが流行してすでに数十年が経つが、だからと言って、古き良き時代の代替にはなりそうもない。ただし、その狭間に在り続け、どちらにも属さなかったSR400の消滅は損失だったと感じている。’78年の登場以来、機構上の大きな変革といえば、インジェクション化(’10年)程度に過ぎず、時代を巧みに切り抜けながらも様々な法規制にあらがえ切れず、’21年に生産を終えてしまった。デコンプレバーを引いてからキックを踏み込み、ごく稀とはいえ、時にプラグがかぶる適度な緊張感は、機械の声に耳を傾け、勘所を探るというクラシカルな疑似体験を奪った。
数多のクラシックバイクを扱っていた2輪専門誌『クラブマン』に配属された時、「歴代編集長はみんなSRに乗っていた」と聞かされ、自分でもすぐに手に入れた。慣らしもほどほどに東京から熊本まで一息に走り、躰がバラバラになりそうながらも恍惚ともしていたあの感覚の先に、たとえ遠くともマチレスやゴルディの扉があるような気がしていた。
’86年に創刊されたクラブマンの初代編集長である小野勝司さんは、「Motorcycle makes a man」という英国の諺を日本に広めた人物というのが通説になっている。「モーターサイクルが男を男にたらしめる」とか「モーターサイクルによって人は一人前になる」といったニュアンスだ。いかにもグッとくる言い回しながら、これ、おそらくは小野さんの中のダンディズムが生み出した創作で、格言として実際に浸透している「Manners maketh man」(礼節が人をつくる)あたりを下敷きに、日本のモーターサイクルフリークに夢を見させてくれたのではないだろうか。優れた編集者であり、書き手であり、ライダーであり、カメラマンだったが、同時に一流のストーリーテラーでもあった。
時代をくぐり抜けてきたクラシックバイクには、その年月が長ければ長いほど、物語が宿る。音、手触り、鼓動、速さを誰かが言葉にし、文字にする。その積み重ねの中で生まれた浪漫に、僕らは惹かれるのだと思う。
伊丹孝裕/Takahiro Itami

イメージの正体
文・中兼雅之
一般的に「イメージ」とは、私たちの脳内に思い浮かぶ像のことである。五感から入力された信号を蓄積された記憶と結びつけながら脳内で統合し、像として立ち上がらせる働きだ。サラリーマンを辞め、芸術という感性の世界に飛び込み、作り手として創作活動を続ける私の視点から改めてイメージという行為を因数分解し、作り手と受け手の両面から、その正体を言語化してみたい。
クルマやバイクの姿をイメージするとき、作り手は形や色を考える前に世界観を思い描く。例えばスーパーカーの象徴であるフェラーリは、速さ以上に情熱や芸術性というイメージを背負っている。その赤いボディは単なる色ではなく、レースの歴史や誇りを含んだ記号でもある。アメリカンバイクの象徴であるハーレーは、排気音や重量感を通して反骨や自由という物語をまとっている。エンジンの鼓動は単なる機械振動ではなく、ライダーの感覚と同調するリズムとして設計されてきた。ここには視覚だけでなく聴覚や触覚も含まれている。
つまり作り手は、「どう見えるか」以上に「どんな意味を宿すか」を設計している。デザインをイメージするとは、物質の形ではなく「意味」を設計する行為に他ならない。私が作品を創作するときに最も意識するのも、この意味付けである。現在では、コンセプトモデルなどによってイメージが実物に先立って流通する。このように、記憶、物語、社会的価値が統合された「意味の構造体」こそが、作り手側のイメージの実体といえるのではないか。
一方、受け手側の視点では、車体そのものよりも、「それに乗る自分」を想像している。スポーツカーを選ぶ人はスピードだけでなく、「挑戦する自分」や「衰えない自分」という自己像を買い求めている。オフロードバイクを選ぶ人も、実際には都市部しか走らなくても、「未知の土地へ向かう自分」という物語を選択している。私がランクル70を購入したのも、「どこへでも行き、生きて帰って来られる」という物語を買ったようなものだ。
さらにイメージは他者の視線にも影響される。自分の選択が他者にどう共感されるかを意識するからだ。つまり受け手にとってのイメージは、「自己投影」と「他者からの共感」によって構成される物語だといえないだろうか。
そして作り手と受け手のイメージは、常に相互に影響し合っている。ユーザーによるカスタム文化は単なる改造を超え、新しい解釈を生み、それが次世代のデザインにも影響を与えていく。近年、キャラクターを直接描かず、色や記号だけで世界観を表現する「概念痛車」と呼ばれる存在も現れている。そこでは実物よりも、共有されたイメージそのものがデザインの主体となる。さらに、AI生成画像などによって、存在しないクルマが現実以上のリアリティを持つことさえある。イメージは物質の写しというより、むしろ物質を生み出す原型のような役割を持っているかもしれない。
この構造は、日本文化の深層にもどこか通じている。神道では、物そのものよりも、そこに宿る意味や気配が重視される。社殿や祭具は単なる物体ではなく、人々が共有する物語や記憶を媒介する装置なのだ。クルマやバイクのブランドイメージと同様に、人々がそこに意味を見出し、語り、共有することで、初めて文化として定着していく。
イメージとは、単に物の像を思い描くことではない。作り手が込めた「意味」という仕掛けを、受け手が他者の共感を意識しながら、「どんな自分でありたいか」という自らの物語として接続し、解釈し直す営みだ。この往復運動の中で、イメージは単なる脳内の像を超え、「意味の装置」となって共有され、やがて「概念」という、社会を動かす設計図へと昇華していくのではないだろうか。私が今、表現者としてこの「意味の装置」に向き合っているのも、新しい「概念」を生み出したいという欲求の表れなのかもしれない。
中兼雅之/Masayuki Nakagane
「概念という枠組~イメージの結び付き」の続きは本誌で
コンセプトカーの意味するもの 世良耕太
なぜクラシックバイクに憧れるのか 伊丹孝裕
自由の象徴であるハーレーの今 青木タカオ
イメージの正体 中兼雅之
