KIZUKI 気付き ーreflectionー

気付きとは、問題点に立ち止まったり、アイデアが閃くことで、これまでを反省することではありません。

気付きを得るとは、今までとは違った視点を持つことなので、新しい考え方や行動につながっていき、自然と意欲が湧いてくるでしょう。これまでの「築き」に執着せずに、少し立ち止まって振り返ったり、周囲を見回してみる。そうした気付く努力をすることは意外とおもしろいことかもしれません。

パトロールのすゝめ

文/写真・中兼雅之

 「ちょっとパトロールに行ってくる」そう言って家を出るのが習慣になって、もう10年以上になる。誰に頼まれたわけでもない。ただクルマやバイクに乗り、気の向くままに走るだけだ。それでも私は、この時間をドライブとは呼ばない。あくまで、〝パトロール〟なのだ。

 街を流す日もあれば、田園風景の中を走る日もある。海岸線をゆっくり流すこともあれば、山道や林道へ入り込むこともある。同じ道を季節ごとに何年も走っていると、風景のわずかな変化に気づくようになる。新しくできた道、姿を消した商店、伐採された雑木林、護岸工事で表情を変えた河川。その一方で、以前から変わらずそこにある1本の大木や小さな神社、砂浜の先に広がる水平線を見ると、時の流れの中にも変わらないものは確かにある。変わっていくもの、変わらないもの。その両方を見届け続けてきた。しかし、本当に観察している相手は風景ではない。自分自身である。

 還暦を迎えた今、その思いはますます強くなった。若い頃は、朝から晩まで走り続けても疲れを意識することはなかった。今では、肩や腰の張り方、夜間の視力、雨の日の集中力、夕方の反応速度に、小さな変化が現れる。交差点での視線の動き、バックミラーを見る回数、休憩したくなるタイミング。以前なら意識もしなかった、そんなひとつひとつが、今の自分の現在地を教えてくれる。

 クルマやバイクは、人間の感覚や能力を増幅する道具だ。だからこそ、自分の変化も隠してはくれない。「今日はここまでにしておこう」そんな判断が自然にできるようになったのは、自分の限界を受け入れられるようになったからだと思う。無理をしないことも技術であり、引き返す勇気も経験のひとつなのだ。誰とも話さず、エンジンの音を聞きながら走っていると、普段は隠れている思考が、ゆっくりと浮かび上がってくる。「あの時の判断は、正しかったのか」「あの人への言葉は、もう少し違う伝え方があったのではないか」「息子の将来は、大丈夫だろうか」「これからの人生で、本当にやるべきことは何だろうか」。以前なら、すぐに答えを出そうとしていた。しかし今は、答えは急いで見つけるのではなく、問いと一緒に時間を過ごすものなのだと思えるようになった。流れていく景色を眺めながら、自分の人生を少し離れた場所から見れるようになったのだ。

 パトロールは、答えを求めて思考を巡らせる時間ではない。素の自分に戻り、心を整理する時間なのである。何を手に入れたのか、何を失ったのか、何を手放せばもっと身軽になれるのか。そんなことを考えているうちに、いつの間にか家へ戻っている。道を選ばず、ためらいなく脇道へ入っていけるランクル70。キビキビとしたコーナリングで、運転そのものと向き合うポルシェ911。季節や風を肌で感じるドゥカティ・スクランブラー。どの相棒を選んでも、向き合う相手は結局、自分自身だ。3台とも性格はまったく違う。だから、どのキーを手に取るかによって、その日の心の状態が少しわかる。共通しているのは、目的地へ行くことではなく、自分を自分に戻してくれることだ。

 かつては、クルマに速さや性能を求め、デザインやブランドに憧れてクルマを買うこともあった。しかし今は、遠くまで無理なく付き合えるか、壊れず長く使えるか、安心して帰ってこられる相棒か。そんなことを基準にクルマを選ぶようになった。それはクルマ選びというより、これからの人生の選び方そのものだったのかもしれない。年齢を重ねれば、時代も景色も変わる。もちろん、自分も変わる。自分が変われば、良いクルマの定義も変わる。変化を受け入れることもまた、人生を楽しむ技術なのだと思う。だから私は今日もパトロールに出る。立ち止まって、自分という人間と向き合うために。パトロールとは、風景を見て回ることではない。昨日までの自分を点検し、明日からの自分を整備する時間なのである。

中兼雅之/Masayuki Nakagane

1965年生まれ、北海道出身、シングルファザー。元(株)リクルート、『カーセンサー』、『カーセンサーEDGE』 編集長、元日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員。2021年に退職後、京都芸術大学に編入して同大学院を卒業。’25年7月に著者として文芸社より『日本の美意識・感性が「ポスト・ヒューマン」を担う』を発売した。

イタリアのモーターバレーにみる欧州のバイク文化

文/写真・山下 剛

 今夏の初旬、イタリアのミサノ・サーキットで開催された『ワールド・ドゥカティ・ウィーク(以下WDW)』を取材してきた。かねてより一度は訪れてみたいと思っていたので、ドゥカティ創業100周年を迎えた今年にそれが叶ったのはとても幸運だった。

 イベント内容の詳細を記すのは本誌の趣旨にそぐわないので省くが、私がもっとも印象に残ったのは、イタリアには文化としてバイクが根付いていることだった。WDWで見聞きしたいくつかの事実がその実感の理由だ。

 イベント初日の夕方、ミサノ・サーキットからビーチリゾートのリッチョーネまで、WDWにやってきたドゥカティ乗りたちがパレードをした。残念ながら私は参加できなかったが、公式発表によればパレードの隊列は全長18㎞に及び、ドゥカティCEOのクラウディオ・ドメニカーリをはじめとする経営陣のほかに、ミサノ市長もドゥカティに乗って先導を務めたという。これは周辺自治体であるミサノ・アドリアティコ、リッチョーネ、リミニ、カットーリカの各市がWDWを支援しているからこそである。

 イタリア北部は工業地帯で、ドゥカティの本社工場があるボローニャ周辺にはランボルギーニ、フェラーリ、マセラティといった四輪メーカーが拠点を構えるほか、イモラ、モデナ、ミサノといったサーキットがあることから“モーターバレー”と呼ばれる。モーターバレーがもたらす利益は当然、周辺自治体にも恩恵をもたらす。持ちつ持たれつの関係が確固たるものとしてできあがっているのだ。

 WDW初日と2日目の朝は会場へ向かう道路が大渋滞し、ホテルを出発したバスはまったく前へ進まなくなった。道路が渋滞するとヨーロッパのライダーは躊躇なく対向車線を使ってすり抜けていくが、対向車が来たときに回避できなければどちらの車線も停滞する。私は結局、途中でバスを下りて徒歩で会場入りするはめになった。これほどの渋滞は地元民にしてみれば迷惑でしかないが、それを封じ込められる、あるいは問題化しないほどに自治体が協力体制にあり、住民も一定の理解をしているのではないか。

 もうひとつ、これこそ文化と感じ、妬ましささえ覚えたのが来場者のバイク駐車場の在り方だ。来場者は専用パスさえ持っていれば、会場内のほぼどこにでもバイクを駐車していいのだ。会場内には来場者のドゥカティが至るところに停めてあり、それ自体がWDWの重要な〝展示〟になっている。

 だから会場内の通路は歩行者と混在してバイクが自由に走っている。もちろん節度あるスピードしか出さないが、歩行者が後方のバイクに気づいていないときはブリッピングしたりホーンを鳴らしたりもする。こうした光景は互いの信頼関係、そしてバイクという乗り物が一定の社会性を持っていなければ成立しない。

 また日常的にバイク用の路上駐車スペースが市街の各所に設置され無料で利用できる環境と生活習慣によるところも大きい。道交法と駐車場法の改正から20年経ってなお、バイク駐車場不足が続く日本とは比べるまでもない。

 鈴鹿市は鈴鹿8耐を支援しているし、全国各地でバイクをツールとして観光誘致している自治体は少なくない。いくつかのバイク系イベントでそういう実例を見たことはあるが、WDWほど積極的な協力体制は寡聞にして知らない。

 渋滞時のすり抜けにしても同様で、イタリアでは日本と同じくグレーゾーンとのことだが(イギリスなどでは合法)、車体が小さなバイクの特性を活かすのは当然という認識があるようで、すり抜けするバイクに対して側方を空けるドライバーは多い。しかし日本でのすり抜けはクルマの反感を買う。バイクが嫌われる原因の大きなひとつで、交通社会からバイクがなくなったほうが安全だし、そのほうがいいと考えているドライバーは存外に多いのではないか。

 文化とは何か。英語のカルチャーの語源はラテン語の「耕す」にあり、生活や社会を豊かにするだけでなく、生活に不可欠な活動や習慣を意味する。日本にはもともと英語のカルチャーに相当する言葉はなく、明治期に「文化」という翻訳語を当て、それが日本語として定着した。いずれにせよ、文化とはそれなくして社会生活をすごせない活動のことを指す。

 ドゥカティによれば、WDW3日間の来場者数は約12万人という。80年代のバイクブーム全盛期、鈴鹿8耐には決勝レースの一日だけで15万人が来場したといわれるが、仮に来年それだけの台数のバイクが鈴鹿市を埋め尽くしたら、社会はどう反応するのか。猛烈な批判にさらされ、ヘイトはますます増大してバイク業界は縮小すると想像するのは杞憂だろうか。

 杞憂で終わらせるには、いったいどうすればいいのか。その難題の答えを私は知らないし思いつかないが、バイクを趣味としてだけでなく、生業としている者として考えずにはいられない。

山下 剛/Takeshi Yamashita

1970年生まれ。『Clubman』『BMW BIKES』編集部を経てマン島TTを取材するためフリーランスとして独立。本誌では『老ライダーは死なず、ロックに生きるのみ』『SNSが生み出した“弁当レーサー”』など、唯一無二のバイク記事を執筆。また『スマホとバイクの親和性』など社会的な視点の二輪記事も得意分野。

50歳を超えたら反芻の時代

文・小沢コージ

 なぜなんだろう。気付いたら昔の様にクルマに熱くなれない自分がいる。昔は「GT-R」と聞けば気になったし、ポルシェやフェラーリの新作と聞けば、買えないと分かっていてもスペックや技術的トピックスが気になり、深く理解したいと思っていた。ましてや乗れる機会があれば、どんなに遠かろうが乗りにいったものだ。ところが今はどうだろうか。

 新車が気にならないわけではないが、無闇に期待してないし、車種によっては乗らなくてもいいと思ってもいる。そこには昔の様に分かり易い新車のパワー競争だったり、ギミックな進化がないこともある。いまや自動車の進化のバロメーターはとっくに燃費になり、電気化になり、インテリジェント化になった。カンタンに言えば新型のスマホみたいなものだ。官能性を競うというより利便性と効率をひたすら競っている。そこに無邪気な夢は少ない。

 おそらく当時の自分はクルマに未知なる幸福を求めていたのだ。今思えば恋愛の熱狂みたいなものだ。思春期は夢のように美しく、聡明で自分に合う異性がどこかにいて、出会えれば必ず幸せになれると思っていた。『小さな恋のメロディ』でも『プリティウーマン』でもいい。ある種の運命の人探しだった。

 しかしこの年になると理想の伴侶選びはとっくに終わり、理想の自動車選びも終わってきている。それどころか己が、あとどれだけ生きられるのかという新しい苦悩すらある。もちろん金銭的成功が伴えば、いくつになっても新作スーパーカーを追い求める人生もあるだろうがレアだ。

 今までいろんな新車を見てきたが夢のクルマはなかった。というかフェラーリF40にもエンツォにも試乗はできたがそこに夢の快楽はなかった。「家の代わりに絶対買おう!」と思うほどではなかったのだ。というか一瞬乗っただけで打ちのめされるものではないということだ。F40をポケットマネーで買える生活があり、自由にサーキットに持ち込める財力があって本当の意味でフェラーリは楽しめるのだと思った。

 結局のところ、新しいクルマで新しい喜びを得るためには財力、体力、知力、意欲すべてを必要とする。それはもう尽きかけている。新しいクルマに興味が湧かなくなるのも当然だ。クルマに飽きたんじゃない。単純に自分自身が挑戦する力と時間を使い切ったのだ。

 じゃ、もう新しいクルマに乗る喜びを諦めてもいいってか、そうじゃない。50歳を超えたら「反芻」の時代だと私は思っている。今まで楽しんだことを改めて楽しむのだが、これは予想外に新鮮で手間も掛からず楽しい。

 例えば最近小沢が憶えたのはスクーターだ。なんてことはない近所のサッカーグラウンドや事務所に通う道具だが、それがことのほか楽しい。運転感覚は学生時代に乗っていたスクーターとほとんど変わらない。

 だが液晶時計を備え、スマホが付けられ、USB充電も可能で、いっそう気楽さと利便性が増している。さらに体重をかけてバンクさせるコーナリングがヤケに楽しい。

 年を経るとなぜか昔の体験を愛おしく楽しめる瞬間がある。昔の漫画のストーリーを微妙に忘れ、再び新鮮に読めるような不思議な喜びがあるのだ。なにより自分があと20年もすれば、運動能力や理解能力を色々失うことが分かっている今、普通に運転できている事実に喜びを感じている。まだできるんだ! 走れるんだ! と。しかし年齢を重ねて、色々なものを失ってもいる。肌の潤いは減り、髪は白くなり、走ると若い者に置いていかれ、時々忘れ物をし、気付くと姿勢も悪くなっている。歌は歌えなくなり、毎日なにかが減っている。

 だが運転はまだ出来る。もちろんクルマを取り上げられ、免許を返納する日もくるだろう。しかしまだ楽しめる。「クルマやバイクを運転できるだけで幸せ」、と免許を取った日のように感じる瞬間がまだあるはずだ。

小沢コージ/Koji Ozawa

1966年生まれ。自動車雑誌『NAVI』に参画。現在はフリーランスとして『ベストカー』『MONOMAX』『日経クロストレンド』『webCG』などで連載を持つ。TBSラジオ『週刊自動車批評 小沢コージのCARグルメ』(木曜 17:50-18:00)が放送中。YouTubeチャンネル『Kozzi TV』も配信中。

「KIZUKI 気付き ーreflectionー」の続きは本誌で

パトロールのすゝめ 中兼雅之
小学生から学んだ親の運転について 小出直史
イタリアのモーターバレーにみる欧州のバイク文化 山下 剛
50歳を超えたら反芻の時代 小沢コージ
aheadがOVER50になって失ったもの 伊丹孝裕


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