8回目となる、シリーズ「これまでの暮らしとこれからのくらしを巡る旅」では、病院と住宅の複合施設『ASMACI神戸新長田』を紹介する。
2023年1月に竣工した同施設は、阪神・淡路大震災によって甚大な被害を受けたJR新長田駅南地区の震災復興再開発事業における、最後の住宅事業として建設された。1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災から、復興までの道のりをたどる今回の取材は、自然災害の多いこの国で、これからの暮らしをどのように考えるかを見つめる旅となった。

阪神・淡路大震災の復興事業のひとつである『ASMACI神戸新長田』を取材することが決まった後、たまたま人から教えられて『その街のこども 劇場版』のDVDを観た。
幼少期に神戸で被災し、現在は東京で暮らすふたりの男女が、震災15年目にあたる日の前夜、偶然、神戸で出会い、神戸の夜の街を一緒に歩くというストーリーだ。主演の2人、森山未來と佐藤江梨子も実際に震災を体験しており、フィクションなのかドキュメンタリーなのか迷わせるほどにリアリティのある作品だ。2人の、一言では言い表せぬ感情や葛藤を、観ている自分も一緒になって追体験しているような不思議な1時間23分だった。
災害を体験した人の気持ちを、そうでない人間が本当の意味で理解することは難しい。しかし、知ろうとすることにはやはり意味があるのだと、そんなことを考えた。

取材当日、空港でレンタカーを借りて最初に向かったのは北淡震災記念公園だ。1998年に開館したこの施設は、阪神・淡路大震災を引き起こした野島断層を実際の場所にそのままの姿で保存し、屋内から観察できるようにしている。世界的にも珍しい試みだ。
淡路島北部の野島断層沿いでは地表が約10㎞にわたって隆起・変位した。横ズレが最大約2m、縦ズレ(隆起)が最大約1.4m。展示室では、舗装道路や畦道、生垣などが真っ直ぐ切断されて段差を生じている光景が観察できる。揺れの大きさもさることながら、足元の地面が1mもずれてしまえば、なす術がないことを実感する。
「〝活断層〟という言葉が一般に知られるようになったのは阪神・淡路大震災以降なんですよ。それまでは専門家や研究者の間では知られていましたけどね」
そう話してくれたのは北淡震災記念公園職員の池本啓二さんだ。言われてみればそのとおりだ。大阪出身の私は、関西は地震がないから安心だと言われて育った。しかし実際は、たまたま記憶にある時間の中に大きな地震がなかっただけで、日本は国土面積の相当部分が活断層の上にあり、関西も例外ではない。
「アメリカのカリフォルニア州では活断層のすぐ上に一定の建築物を立てることを禁じる州法があるんですが、狭い日本の国土では現実的ではないですよね。だから、どこに何を建てるかは個人の判断に委ねられています」
断層があることを知りながらその上で暮らしていく。それが私たちの置かれた現実である。


北淡震災記念公園・野島断層保存館

他にもこの震災がきっかけになって変化したことがある。
震災で犠牲になった6,434名(関連死を含む)のほとんどが、倒壊した建物の下敷きになったことが原因であり、そのことを教訓として、2000年に建築基準法が改正された。2000年基準では、木造住宅の地盤調査、接合部の金物指定、耐力壁の配置バランスなどが新たに規定されている。
また1995年は「ボランティア元年」とも呼ばれる。全国から支援者が神戸に集まった経験が、その後の日本の災害支援体制の原型となった。避難所のあり方も、この震災を契機として変わり続けている。避難所・避難生活学会は、避難所の生活環境改善に必要な三要素として「TKB」を提唱。「TKB」はトイレ、キッチン、ベッドの頭文字だ。震災関連死という新しい概念とともに、この30年で徐々に整理されてきた。
「自助・共助・公助」という言葉が広く使われるようになったのも同様であり、こうした変化はどれも、あの1月17日の朝を起点としている。

メリケンパーク
そのような知識を整理しながら、北淡震災記念公園を後にし、明石海峡大橋を戻って神戸市街地のメリケンパークを目指した。夏休みの親子連れや観光客が「BE KOBE」モニュメントの前でポーズをとっている。子どもがモニュメントの文字から顔を出し、母親がスマホを構える。あちこちで観光客の笑い声が響いている。
「BE KOBE」という言葉は震災20年のシビックプライド(市民の誇り)プロジェクトにおいて、「神戸の魅力は人である」という思いを込めて生まれたメッセージだ。それを神戸港開港150周年を機に2017年、メリケンパークの大改修と合わせて、立体モニュメントとして設置された。
震災当時、メリケンパークを囲む岸壁はそのほとんどが大きく崩れ、このモニュメントが立っている場所も海側に大きく破断した。
復興工事が進む中、しかし北東側にある岸壁の約60mだけはあえて改修せず、保存された。それが現在もそのまま公開されている神戸港震災メモリアルパーク(1997年7月竣工)である。ひび割れて海へ落ち込んだ岸壁、傾いた街灯が当時の震災の様子を今に伝えている。

東遊園地
そして震災を振り返るとき、忘れることができない場所がメリケンパークから北東方向に直線距離で1㎞余りの距離、市街地の中心部にある東遊園地である。震災の朝にはヘリコプターの着陸場となり、救援物資の集積・配布拠点となった。園内の北側には震災発生時の「5時46分」を指したまま止まった時計(マリーナ像)が佇んでいる。一方の南側一角には、2000年1月に「阪神・淡路大震災 慰霊と復興のモニュメント」が完成した。地下の瞑想空間には犠牲になった方々の銘板が並んでいる。そしてそのすぐ近くにあるのが「1.17希望の灯り」だ。被災した10市10町と、全国47都道府県から集められた種火をひとつにしたもので、震災から30年以上経った今も、毎年1月17日の未明、ここに多くの人が集まり、静かに祈りを捧げる。
他の被災地の追悼施設の多くが被災現場の跡地や体育館・文化会館に置かれているなかで、神戸の街の中心、しかも日常的に人々が憩う公園の真ん中に祈りの場所が在り続けていることは珍しいことなのではないだろうか。年に1度、失われた命を想うだけでなく、震災の記憶と交差する場所が日常の中にあること。そのことが持つ意味は大きい。
私はこれまで幼少期を含め、成人してからも何度か神戸を訪ねている。ポートタワー、ハーバーランド、異人館に中華街。1,000万ドルと言われる夜景も見に行ったし、有馬温泉にも泊まった。
しかし、心を躍らせながら歩いたその街に、こんなにもたくさんの震災の記憶が遺されていることを私は知らなかった。神戸市内だけでも震災に関連する記念碑や慰霊碑、メモリアルスポットは公的なもの、地域的なものを含めると100ヵ所以上にのぼる。
それらはただ遺されたのではなく、震災を生き延びたたくさんの誰かが遺したものであり、これからを生きていく誰かに託されたものなのだと思う。
阪神・淡路大震災の記憶を辿りながら歩いた1日の最後に、神戸の街を見下ろす六甲山にのぼった。かつては、ただ美しいと愛でた神戸の夜景。しかし今、私にはその一つひとつの光がもっと尊く、もっと力強く輝いて見える。

ASMACI神戸新長田


後編(VOL.287/10月号)では震災の体験や記憶を未来につなげていく動きや取り組みについて、またその中で『ASMACI神戸新長田』が担う役割についてもご紹介する。
Yoko Wakabayashi
