「光と影」をテーマにする写真家の瀬尾
またアメリカに憧れ続けたカメラマンの増井貴光は還暦を超えた今、アメリカに何を思うのか。
そして渡英することを最後にしようとした山下 剛はBMWでスコットランドへ旅に出た。

僕たち世代が憧れたアメリカは今もあるのか
文/写真・増井貴光
アメリカという国を初めて意識したのは小学生の頃だった。『爆走トラック16トン』というテレビドラマを観てしまったのだ。アメリカを巨大なトレーラーで縦横無尽に走り回る姿に憧れた。当時はスーパーカーブームで同級生は、フェラーリやカウンタックの消しゴムに夢中だったが、全く興味が湧かず、「トヨタ・ハイラックスが欲しい」などと思っていた。中学生になっても将来の夢はアメリカでトラックドライバーになることで、『トランザム7000』や『コンボイ』、『バニシングポイント』や『ブリット』など、アメリカ映画ばかり観ていた(『イージーライダー』だけは中学生の自分には全く理解できなかった)。高校に行く頃には、雑誌『ポパイ』や片岡義男のエッセイ、それにアメリカのハードボイルド小説を読み漁った。しかし免許を取って最初に乗ったのは当時の流行りでスポーツバイク。アメリカンと言われるジャンルには興味はあったもののすぐに所有することは無く、いつしかアメリカへの憧れも薄れていった。
実際にアメリカに行くことになるのは、それからかなり後の20代半ばだった。初めてアメリカ本土に渡ったのはカリフォルニアで、BAJA1000の撮影やレースサポートでカリフォルニアとメキシコと日本を1年のうちに行ったり来たりしたのだ。この頃から仕事で頻繁にアメリカを訪ねることになり、子供の頃に抱いていた夢を思い出した。借りていたクルマがスティックシフトのトヨタ・トラック、つまりハイラックスだったからだ。その後はアメリカ慣れしてきたせいか、適当な英語しか話せないのに、ひとりでのアメリカ渡航も平気になっていった。

30代に入った頃に今でも家族同然の付き合いをしている能楽師の大倉正之助さんとLAからサンタフェまでハーレー・エレクトラグライドとホンダ・ワルキューレで走った。これがアメリカでの初めてのバイク旅となった。真夏の乾燥した暑さの中をバイクで走るのが辛かったが、同時に強烈に気持ち良かった。この時に出会ったのが「アメリカインディアン運動(AIM)」のヒーローであるデニス・バンクスさんだ。彼が日本に来ると一緒に行動することも多くなり、北海道をツーリングしたこともある。それから何年かしたらデニスさんから「ミネソタに戻ったから遊びに来い」という国際電話がかかってきて数週間後には、LAでハーレーを借りて2,500マイルほどの道のりを5日ほどかけてミネソタを訪ねた。スマホはもちろん、携帯もナビも無く地図だけを頼りによく辿り着けたと思う。この旅では5,400マイル(約8,700キロ)も走っていた。さらにその2年後に友人とふたりでシカゴからサンタモニカまで「ルート66」を全線走破した。ロードサイドで見た光景は、子供の頃にテレビや映画を観て憧れたアメリカそのものだった。このふたつの旅で僕にとってのアメリカは、憧れから現実に変わった気がする。

それから四半世紀が過ぎて僕は今でもアメリカに通っている。同じレースにカメラマンとして十数年通い続けたことで友人と言える人たちが増えたのだ。昨年もハーレーを借りて、懲りもせずに真夏のフリーウエイを2,000マイル以上走り続けて友人に会いに行ったりもした。メジャーなインターステイトを走っていると、同じようなビジュアルのファストフードやガソリンスタンドばかりになっているけれど、今でもマイナーなハイウエイを走っていけば、昔ながらの風景に出会うことができるのがアメリカの魅力だ。またフリーウエイの制限速度は、年々上がって場所によっては80マイル(約130キロ)となった。ツインカム以降のハーレーであれば過不足なく流れに乗れるし、もっと早いスポーツツアラーやアドベンチャーの方が楽なのだろうが、長時間走り続けることを考えるとOHVで排気量の大きいちょっとダルなエンジンのほうが飽きない。何よりもアメリカらしい光景に一番似合うリズムを刻んでくれるのだ。なんて理屈はつけるけれど、僕にとってアメリカを楽しく走れるのがOHVのハーレーってだけなのだろう。日本では考えられないようなスコールにあってびしょ濡れになっても、ダストストーム(砂塵嵐)で息をするのも苦しいような目に遭っても、ハーレーで走っていると笑っていられるのだ。為替の変動もあって経済的な条件が厳しくなって、なかなか長く滞在することが辛くなっているけれど、会いたいと思う人がいて、あの景色がある限り僕はアメリカに通い続けるだろう。

増井貴光/Takamitsu Masui

イングランドとは違うスコットランドの旅
文/写真・山下 剛
思い返してみれば、イギリスという国には何の思い入れもなかったのに、気がついたら毎年のように渡英して15年が経った。人生、どこで何がどうなるかわからないものだ。いや、ただ単に無計画な毎日を過ごしているせいなのだが、これほど通うことになるとは考えてもみなかった。
しかし3年前あたりから潮時と感じつつ、つい慣性というか、未練があるようでないような思いを引きずりながらマン島TT取材へ赴いていた。誰かから「もはやライフワークですね」と言われるたびにハハハと曖昧な笑いで返しつつ違和感を拭えなかったし、自分の成果に進歩も変化も感じられなくなっていた。経済的事情も大きな理由のひとつだ。赤字にしかならない自腹の海外出張が年ごとにきびしくなっている。
今年で最後にしよう。いや、そう決めつけてしまわなくてもいいが、ひとまず一度離れよう。ようやくそう思えて、マン島帰りにスコットランドへ寄り道旅をしてきた。
なぜスコットランドかというと、未練があったからだ。はじめてマン島を訪れた2011年、グレートブリテン島最北端ジョン・オ・グローツを目指したものの時間が足りず、ネス湖までしか行けなかったのだ。だから今回はジョン・オ・グローツを目的地として、スコットランドの複雑に入り組んだ海岸線をできるだけなぞりつつ北上していこう。

イングランドからスコットランドへ入ると、かなり露骨に風景が変わる。イングランドはゆるやかな丘陵地帯と平野に牧場や畑が広がっているが、スコットランドへ入ると丘は急峻な山になり、平野は極端に狭くなる。また、高緯度地帯になるため標高数百メートルで森林限界に達してしまい、山の中腹以上は岩が露出している。
とくにスコットランド北部(ハイランド)と西部(アイランド)は、間氷期に溶け出した氷河が岩山を削ったフィヨルド(入り江)と、プレート移動によって南西から北東にかけて引き裂かれた大地になっているから、地形は渓谷だらけで入り組んでおり、平野はほとんどないのだ。それでもイングランドとの国境付近では針葉樹林があり、切り倒した巨木を積んだトラックとすれちがうし、伐採したばかりのハゲ山もそこかしこで見られる。しかし北上をつづけるうちにそれらも見られなくなり、視界の色彩は灌木と岩の褪せた茶色になる。
低地には緑色も見えるが、日本では2,000メートル級の高山で見られるような小さい草花と苔だ。バイクを入れた風景写真を撮ろうと道路脇へ踏み出せば、そこらじゅうに水たまりがあるし、苔を踏むと足が沈んで水がにじむ。

氷河が削った山地には池や湖が点在していて、その様相はダム湖のように急峻で細長く(なかには本当のダム湖もある)、たいていの道路は湖か川、あるいは入り江に沿って走っている。ところどころに小さな集落はあるが、人口密度は極めて低く、イングランドを走っていると毎日必ず見かけるウサギやリス、シカといった野生動物の轢死体も見当たらない。
6月中旬で青空が広がる天気でも、冬用のアンダーウエアとダウンジャケットを着込んで、ようやくバイクで走れるほどにしか気温は上がらない。BMW UKに借りたR1300GSアドベンチャーの気温計は14度を越えることがなかった。人間は水があればどこでも生きていけるものだと思っていたが、それは誤解だった。この大地には生命の気配が希薄で、いうなれば湿った砂漠だ。ローマ人もアングル人も、そしてバイキングたちもイングランドのみを欲し、スコットランドを我が物としなかった理由の一端がわかるような気がした。

人間が手をつけようがなかった原野をバイクで走るのは爽快だ。スコットランドは観光促進のためか、ハイランドの奥地にまで道路を走らせて「NC500」と名づけたドライブルートにしている。しかし1車線の幅しかなく、2~300メートルおきに離合のための待避所があるほどだが、すべて舗装されていて制限速度は時速60マイルだ。もっとも道幅が狭いうえに曲率の小さなカーブが多いからそんなスピードで走り続けられる区間は少なく、せいぜい時速30~40マイルで走るのが無難だ。クルマが離合できず片方が待避所までバックする場面に何度も遭遇したし、コースアウトしたバイク(ドイツナンバーのR1100RTで、ライダーに怪我はなかったしバイクにもたいしたダメージはなさそうだった)を引き上げる手伝いもした。日本でいうと地方を走る林道上がりの300~400番代の三桁国道、いわゆる酷道に近い。
比較的天候が落ち着いた入り江にはキャンプ場やコテージ、ホテルなどもあるが、簡易的な建物が整然と並ぶ光景は高緯度の寒冷地特有のものだ。写真や映像でしか見たことがないが、ノルウェーやアイスランドの集落に似ている。そんな集落には雑貨と食料品を売る小さな店と、無人給油所くらいしかない。もっとも無人のおかげで24時間営業なのがメリットか。

それでも原野のなかでバイクを停めて一服していると、平日にもかかわらず10分もしないうちにクルマかバイクがやってくる。もしも事故を起こしたりバイクが故障しても、路上にいるかぎり遭難することはなさそうだ。そう考えると、ハイランドはかなり手軽に冒険気分を味わえる土地だ。標高1,000メートルに満たないのに、中緯度地帯なら3,000メートル級の高山でしか見られないような風景のなか、しかも舗装路をバイクで走れるのだ。

このあたりの宿の相場は120ポンドほど払えば気持ちのいいベッドと朝食がつく。しかし辺境のリゾートだから200ポンド以上のホテルもざらにある。1ポンド=230円のいまは一泊100ポンドですら痛い。46ポンドの宿を見つけて行ってみたら、立派な石造りの建物で、ベントレーが駐車している。どう見ても200、いや300ポンドを下らない。間違えたかと思いつつフロントで受付すると、たしかに予約した宿はここだが、私が寝泊まりするのは別棟のバンクハウスだという。
調べてみると、バンクハウスとはかつて馬丁や木こりなどが寝泊まりした簡素な家屋のことで、つまり主人と同じ屋根の下で眠れる身分ではない労働者のための宿だ。階級制度の名残だが、現在ではハイカーやサイクリストが好んで使う素泊まりの安宿としてスコットランドに定着しているらしい。
なるほど、私にぴったりの宿だ。たいていのバンクハウスはドミトリーだそうだが、ここは個室でシングルベッドだった。すばらしい。ただし掛布団はなく寝袋必須だ。ベッドにダニでもいたのか、翌朝は腕や足のあちこちが赤く腫れて痒かった。これが階級社会だ。

左上/一泊300ポンド超のホテルの門構えにビビっていたら、安宿はこの隣にある別棟のバンクハウスだった。
右下/ハイランド北端の岬にあるコテージ群は、ノルウェーやアイスランドの集落の光景に似ている。
左下/NC500の大部分は1車線幅しかなく、バイクでも待避所でなければ離合できない。
イギリス最後の旅としてスコットランドを再訪したのに、もうすでに「また来たい」と思ってしまっている自分がいた。ジョン・オ・グローツを目指すためにところどころ半島を端折って走っているから、未踏の地がいくつもある。とはいえ、今回訪れた場所とそう変わらない景色しか広がってないだろうが、この原野は見飽きることがない。大地の片隅、最果て感が濃厚で、そのなかに身をおくことが心地いいし、何よりバイクで駆け抜けられるのが最高だ。
もっというと、ここの風景にはイングランドで感じる傲慢さがない。この地で生きる人々の強靭さを感じられて頼もしい。ふとパタゴニアへの憧れを思い出した。アフリカを出発したホモ・サピエンスが行き着いた地の果て。スコットランドも日本もそういう土地のひとつではあるが、パタゴニアは人類の地球拡散最後の終着点だ。マン島へ行くのをやめれば、そのぶんのカネでいつか行けるときが来るだろうか。
ジョン・オ・グローツを目指して3日目。近づくほどに景色がまた変わってきた。平坦な土地が増え、イングランドのような様相だ。近隣の町サーソーは信号機があるほどに栄えていて、それまで走ってきた未開の地との隔たりが激しい。現代の文明社会へ一気に引き戻され興ざめしてしまった。まあ旅の終わりとはこんなものだ。

左上/スコットランドからの帰り道はほぼ一日中雨で、700km以上走った。右下/ハイランド北端の岬にある今年6月のイギリスのガソリン価格。リッター1.6ポンドを円換算すると約360円だ。
左下/ロンドンの町に馴染むことなく堂々と客待ちする自転車タクシー。
翌朝から雨のなかを一日半かけてロンドン郊外まで一気に戻り、バイクを返却した後はヒースロー空港そばのホテルに投宿した。時間があまっていたので10年ぶりにロンドン市内を散歩したら、ビッグベン前に極彩色の自転車タクシーが数台、客待ちしながら大音量の民族音楽を鳴らす光景に出会った。ロンドンの町並みにまったくそぐわない異端さは、かつて武力制圧されたアジア人よる文化的逆襲だ。EUを離脱したといっても移民問題は解決しないのだろう。
スコットランドはEU離脱に反対していたし、いまもEU復帰やイギリスからの独立を求める声は小さくないと聞く。人間の精神性は土地の環境に大きく影響を受ける。彼の地の過酷さが彼らの独立心を育んでいるのかもしれない。
イギリスからはしばらく距離をおこうと決めて出かけたが、スコットランドはまた訪れたい。そのときは局地的に連泊して、じっくりと湿った砂漠の悠久を感じたい。

山下 剛/Takeshi Yamashita
「ライフワークの先にある旅」の続きは本誌で
日本の林道は本当に危険になったのか
ー写真家の目線から見る、クマの森と今― 瀬尾拓慶
今の中国を旅するということ 吉田拓生
僕たち世代が憧れたアメリカは今もあるのか 増井貴光
イングラントとは違うスコットランドの旅 山下 剛
