リチウムイオンバッテリーの開発者のひとりであり、ノーベル化学賞や文化勲章を受賞した吉野 彰氏は、過去から未来を見ることが重要だと発言した。
吉野氏は、過去から現在までの変化をたどることと、未来からの信号をキャッチすることを組み合わせて研究のヒントにしているという。クルマやバイクを取り巻く世界が今後どのように変化していくのか、それぞれの視点で考察してみたい。

4万年前のDNAの疼き~バイクの現在、過去、未来
文・山下 剛 写真・長谷川 徹
経済が発展途上にあるとき、安価で利便性に優れるバイクはマジョリティな生活必需品だ。しかし経済状態が上向きになるとともに、そのポジションを安価なクルマが奪っていく。やがてバイクはマイノリティな趣味のツールへとその意義を変える。
かつて生活必需品としてのバイクは通勤や通学といった市街地での移動手段としてだけでなく、荷物を運ぶ業務用として欠かせない存在だった。側車やリヤカーをつけたスーパーカブが畳屋やガラス屋、移動販売の魚屋などに利用されて庶民の生活を支えていたが、それらは現在すべて軽自動車に代替された。今の日本で業務用バイクといえば、フードデリバリーと郵便、新聞配達くらいだ。
バイクにおける実用から趣味への変遷は、様態の差異はあれど世界中で同じ傾向にある。二輪生産から自動車産業をスタートしたホンダとスズキ、BMWが四輪へ進出した例を見れば明らかだ。経済が発展して消費力が上がれば、庶民はより便利で見栄の張れるクルマを求め、メーカーはさらなる利益を得られる四輪車生産を手がけるようになっていく。
現在、世界的に生活必需品としてのバイク市場が活況なのはインド、中国、東南アジア諸国だが、一昨年のマン島TTで、中国・内モンゴルからスズキ Vストローム250で自走して観戦に来た中国人に出会った。すでに中国はクルマが生活必需品で、バイクは趣味になっているといっていいだろう。いずれは他の国々においても経済力向上に伴い、バイクはマイノリティになっていくはずだ。これはバイクの宿命である。
経済力向上だけが理由ではない。バイクが生活必需品であるうちは見えにくいが、趣味性が高まるにつれてバイクが本質的に持つ「自由さ」と「個」が発覚する。
現生人類である私たちホモ・サピエンスは、数多く派生した人類のうち唯一の生き残りだ。その理由にはさまざまな推論があるが、集団の大きさによる多様性がいくつもの重要な発明をもたらした、という説が有力だ。それを裏付けるように、ホモ・サピエンス以外で最後の人類であるネアンデルタール人(※)が絶滅した理由を、集団が小さいために多様性が乏しく気候変動に対応できなかった、と専門家たちは考えている。
集団を拡大することに長けたホモ・サピエンスは、やがて社会を形成し、民主主義と社会主義を発明する。前者は「自由」や「個」を重視する社会体制だが、それでも集団である以上、そこには一定の規則が存在し、個人を束縛する。
バイクはその一線を超える可能性を秘めた乗り物だ。しかしクルマはそうならない。なぜか。人間がまたがるバイクは、その車体に入り込むクルマよりも身体能力の拡張をダイレクトに感じられるからだ。
さらにいえば、四足歩行から二足歩行になったことで類人猿は人類へ進化し、世界中に拡散して繁栄した。生命も機械も、大地への接点が少ないほど自由になり、大きな可能性を持つのだ。
だが、そうした要素は集団の結束力を脆くする。それゆえ国家体制が民主主義であるか、社会主義であるかを問わず、社会とそこに暮らす人々(マジョリティ)はバイクを本能的に危険視する。社会に従属する一般人の中には、危険視どころかバイクを拒絶する人も少なくない。
また社会を乱す危険性に対する本能的な拒否反応だけではない。そこにはバイクが持つ自由さと個に対する「羨望と嫉妬」もあるはずで、意識的あるいは無意識に抑制しているそれらを解放しているバイク乗りを、バイクに乗らない人々は敵視する。
既製服のサイズやデザインがジャストフィットするかのように、生まれ育った社会で何の違和感もなく心地よく生きられるマジョリティにバイクは不要だ。その存在価値すら理解できないし、想像しようすら思わない。だからこそ、バイクはマイノリティであることから逃れられない。一部のマジョリティからは敵視どころか差別され続ける。未来において、この傾向はますます強くなっていくはずである。
ただし、自動運転化が達成されて交通社会からバイクを排除した未来で、現在の乗馬やスキーのようにクローズドコースで走らせるレジャーとなったとすれば事情はちがってくる。そのとき、バイクは羨望や嫉妬の対象ではなくなり、可処分所得を多く持つ人々が優雅な休暇をすごすための趣味になっているだろう。
それを進化や昇華と呼ぶか、あるいは劣化や抜け殻と呼ぶか。どちらかといえば私は後者に賛成だが、その頃には私はもちろん、そう考える人々も絶命しているだろうから、妄想するだけムダな話だ。
バイクに乗る人間は、ネアンデルタール人のようにいずれ消えゆく運命なのかもしれない。だがホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人由来のDNAを約2%を受け継いでいることが科学的に証明されている。バイクを走らせたいという根源的な欲求は、ホモ・サピエンスが生きている限り残り続けるにちがいない。
山下 剛/Takeshi Yamashita

承認欲求の移り変わり~クルマ馬鹿の現在、過去、未来
文・夢野忠則
若者のクルマ離れが指摘されるようになって久しい。「だから魅力的なクルマを作れ!」と昭和生まれのオジサンは主張したがるが、そういうことではなくて、ようするにクルマに対する価値観が変わったのだろう。実際、この数年で街を走る「わ」ナンバーのクルマがやたらと目に付くようになった。若者はクルマを嫌いになったわけではなく、クルマを「所有」することに価値を見いださなくなったのだ。
クルマを所有することによって背負うリスクとか、カーシェアリングの定着で所有する必要性がなくなったとか、いろんな要因があるのだろうが、ここでは「承認欲求」という観点から若者のクルマ離れについて推察してみたい。
SNSが普及するにつれ「承認欲求」という言葉をよく耳にするようになった。他者から価値ある存在だと認められたい、評価されたい、あるいは自分を価値ある存在だと認めたいという承認欲求は、なにもSNSによって顕著になったわけではなく、昔からある人間の普遍的な欲求である。
では、SNSがなかった時代に、僕らはどうやって承認欲求を満たしていたのか。あの頃、それを満たしてくれたのがクルマ(でありオートバイ)であった、という説はどうでしょう?
クルマを手に入れれば、他人とは違う自分になれる。さらに人からスゴいと思われたくて、もっとカッコいいスポーツカーや高級なクルマを乗り回したくなる。ユーチューバーが過激になっていくようにシャコタンにするとか。それが若者にとって唯一(?)の承認欲求を満たす方法で、だから、みんながクルマを所有することに憧れたのではなかったか。
今の時代はSNSのおかげで、なにもクルマに頼らなくたって承認欲求を満たすことはできる。となると特に若い人からすれば、わざわざリスクを背負ってまでクルマを所有する必要はないし、クルマに憧れる理由もなくなってしまったのではないか。
もしも昭和のあの頃にSNSなんてものがあったなら、僕らはどうしていただろう。画像を加工すれば済むのなら、わざわざリーゼントでキメることもなかったかもね。今どきツッパリスタイルの高校生なんて見かけないのは、そういうことかもしれません。
というわけで、クルマ馬鹿率(免許取得者数におけるクルマ馬鹿の割合)が若い世代ほど低下するのは理解できるし納得するほかない。中高年のクルマ馬鹿率が高いのは、オジサンがSNSを上手に使いこなせていないってことだろう。
ただ、だからクルマ馬鹿の未来がこのまま先細っていく、とは思わない。むしろ逆である、と声を大にしておきたい。
これからの時代、SNS上の顔はみんな似たようになっていき(すでに、そうなっている)、誰もが楽しそうに同じような暮らしぶりをアップしているだけになるだろう。結果、みんなが同じになってしまったら、SNSでは承認欲求を満たすことができなくなる。“いいね!”が空しくカウントされるだけだ。
この先、AIが進化すればするほど、フェイクではない「リアルなモノやコト」の価値が高まっていくと信じたい。馬鹿がつくほど夢中になれるリアルこそが何よりの価値となる。人とは違うクルマを手に入れるとか、こだわりのクルマに乗り続けるとか、つまりはクルマ馬鹿率が再び高まっていくにちがいない。
AIのある暮らしは便利だし、もちろん悪いことではないけれども、なんでもコスパやリスクを物差しにして、お利口さんだらけの世の中になってしまうのはつまらない。間違ったり失敗したりするからこそ人生は面白いのであって、答えはひとつじゃないし正解なんてわからない。だから、僕らが若者たちに伝えよう。
「馬鹿になれ」、と。

夢野忠則/Tadanori Yumeno
「クルマとバイクの現在、過去、未来」の続きは本誌で
これからが日本車の時代 ~日本のクルマの現在、過去、未来
4万年前のDNAの疼き ~バイクの現在、過去、未来
憧れから共感の時代へ ~エンタメの現在、過去、未来
承認欲求の移り変わり ~クルマ馬鹿の現在、過去、未来
