Period of Blueとは「青の時代の終止符」という意味で語られることが多い。
これまで走り抜けてきた時代を振り返り、ひとつのゴールラインを決めることで、何のためにガンバってきたのか、何を求めてここに辿りついたのか、
その大事なことに気付くことができるはずだ。

夢のあとさき~10回目のモンゴルラリー
文/写真・若林葉子 写真協力・原 豪志、中野一郎、小川泰伸、荘林 純
2005年に取材で訪れたRally Mongolia(モンゴルラリー)をきっかけに、2009年に選手として初出場して以来、若林葉子はすっかりこのラリーに魅せられた。「そろそろ区切りをつけるときかもしれない」 そんな気持ちで旅立った10回目となる今年のモンゴルラリーだったが、果たして、若林はこのラリーにピリオドを打つことはできたのだろうか。

Rally Mongolia
都会育ちの私は、自分の中に自然に対する憧れのようなものがあることを知らないまま大人になった。
2005年の夏、モンゴルラリーを取材することになったとき、私はキャンプをした経験もなく、自分でテントを張ったこともなかった。アウトドアなどとはまったく無縁のまま(テントを張る練習はした)、テントとシュラフをダッフルバッグに詰めて、彼の地へと旅立ち、いきなりほんものの大自然の中に放り込まれた。相当ちぐはぐだったのだろう。のちに、いや今に至るまで、「砂漠でパラソルを差していた」とか「レースの手袋をしていた」とか言われることになる。もちろん、そんなことはしていないのだが。
とにかく、初めてのモンゴルは、私に鮮烈な印象を残した。
何しろ広すぎる。プレスカーで次のビバークに向かうのだが、走っても走っても走っても走っても、同じような風景が続く。西に向かって日が暮れれば、目が潰れるほど眩しい。遠くに見える雨雲の下には、そこだけ雨の柱が見えている。草原でタイヤが野草を踏めば、一面にニラのような香りが広がる。そして月のない夜には、空一面が星、星、星。
何より印象に残ったのは、ヘリから見下ろした光景だった。
茫漠とした大自然の中を、たった1台でひた走るライダー。その姿が、とても美しかった。ゴールした後の参加者たちの顔も、生き生きとしていた。
そこには、私の知らない世界があった。

このとき、取材を通して私の胸に去来したのは、「この競技は見るものではない。出るものだ」という思いだった。
アウトドアにも興味がなく、モータースポーツも知らず、マニュアル車すら運転できなかった自分が、そんなことを言い出すなど、あまりにも非現実的だと、本人ばかりでなく周囲の誰もがそう思ったに違いない。
それでも4年後の夏、私は実際に選手としてモンゴルの地に立っていた。
初出場に至る経緯と、その結果については以前記事にしたので、詳しくは繰り返さない。ただ、ほんとうに大変だった。
日本からモンゴルラリーに出る人たちは、当たり前だが、普段からクルマやバイクでオフロードを走っていたり、ラリーやエンデューロなどの競技に出ていたりする。子どもの頃から自転車で野山を駆け、長じて山登りに親しんでいる人も多い。
それらを全部すっ飛ばして、いきなりゴビを舞台にしたラリーレイドに出るという人は、まずいない。私にはその世界に詳しい知り合いもいなかった。
あらゆる点で無謀すぎた。準備不足ということですらない。本当に「お騒がせ」な出場者で、たくさんの人に迷惑をかけたと思う。

それでも、幸運だったのは、そのチャレンジが1度で終わらなかったことだ。
1度目は、スタート地点に立つだけで精一杯だった。2度目は、よちよち歩きながらも、三好礼子さんという唯一無二のナビゲーターを得て、全行程を走り切った。
レイコさんと言えば、数々の国際ラリーで活躍し、パリ・ダカールラリーでは二輪の女性クラスで3度の優勝を果たした、日本を代表する国際ラリーストだ。
レイコさんは私を時に褒め、時に叱り、励まし、ゴールへと導いてくれた。私は彼女から、ラリーとは何か、ナビの役割とは何かを学んだ。
その後は主に菅原義正さんのナビとして経験を積ませてもらった。私が選手として8回もこのラリーに参加できたのはひとえに菅原さんのおかげと言って過言ではない。初回出場の際、バギーで出ておられた菅原さんは私の苦戦ぶりを目にし、あまりに気の毒に思われたのだろう。資金的には一度出るだけで精一杯だった私に、次の年、部品取りのために購入していた中古のジムニー・シエラに手を入れて、私に貸してくださった。菅原さんのつくってくれたジムニーと、レイコさん。この2回目がその後へとつながり、その道は2015年1月の南米ダカールラリーへと続いた。
そしてダカールラリーと同じ年の夏、私はナビをつけず、1人でモンゴルを走る(シングルハンド)ことにした。
ラリーでは、クルマの場合、基本的にドライバーとコ・ドライバーの二人一組だ。自分が未熟でも、相棒が優秀なら、その未熟さはカバーされる。それは四輪ラリーの面白さでもあるが、それでは自分の実力はわからない。自分一人なら私はどこまでできるのだろう。それが知りたくなって、シングルハンドで挑戦し、完走した。
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今振り返ると、私のモンゴルラリーにおけるチャレンジは、そこで一区切りついていたのだと思う。
モンゴルの自然そのものに憧れ、あの広大な自然の中を自分で走ってみたいと思って始めたチャレンジだったが、実はほんとうに私があこがれたのは、大自然に一人で立ち向かっていく「人間」だった。
競技だから速い=偉いのは当然だが、どんなことがあっても、どんなに大変でも、ゴールにたどり着く。完走した人は等しく最大限の敬意をもって迎えられる。それがラリーという競技だ。
私は、強く、へこたれず、諦めない、タフな人間になりたかったのだ。「あいつは絶対帰ってくる」と信頼される人間になりたかったのだ。今も私はたいして速くも上手くもないが、そんな人間にはなれたんじゃないかと思う。
そう。シングルハンドでの完走で、私のチャレンジは完結した。
それ以降、今年の夏を含めて選手として走ったその後の3回は、言わば幸運な「おまけ」だ。
モンゴルを走るのは、いつだって最高に楽しい。でも、何のためにそれをやるのか。その意味を自分の中で知っておかなければ、いつの間にか「挑戦すること」そのものが目的になってしまう。
「ここまでやったのだから」という気持ちは、長く続けるほど強くなる。そこにこだわりすぎると、最初のピュアな気持ちを見失う。
区切りをつけることは、やめることでも、失うことでもない。ただ、やっぱり何かを手放すことではあって、得たものが大きいほど寂しさもぬぐえない。それでも自ら、いったんピリオドを打つことで、ピュアな気持ちを残したまま、その先を見る心の余白が生まれるのだと思う。
ピリオドは人生に次へのリズムを生むのではないだろうか。
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競技としてのラリーに一つの区切りをつけたのち、3度目となる今年の夏は、いつもとは少し違う気持ちでモンゴルへ向かった。
人は歳をとる。どんなに楽しいことも、いつまでも同じようには続けられない。
出発前、「もう今年で最後になるかもしれない」「そろそろ最後にしなければならないのかもしれない」と何度か思った。
だからといって、完全にそうすると決めたわけではない。結果的に今年が最後になるかもしれないし、また何かのきっかけで走ることがあるかもしれない。
ただ、2度目のピリオドを打つ日がそう遠くないことは、もう分かっている。その日のための心の準備はできていると思う。
そして、もう一つ、気持ちの変化もあった。
これまで、自分の所有するクルマとしてジムニーは選択肢にはなかった。私にとってジムニーは、モンゴルラリーを走る相棒だったからだ。
でも、この夏、モンゴルから帰ってきて、「ジムニーありかも」と初めて思った。
ジムニーは速くもない。燃費も良くない。直進安定性も良くない。広くない。キビキビと走るコンパクトハッチが好きな私にとって、ジムニーは、ないない尽くしのクルマだ。
でも、日本の一般道をジムニーで運転していると、ふとした瞬間、モンゴルのオフロードの風景が蘇ることがある。
大好きなモンゴルの風景を思い出しながら、ゆるゆると普段の道を走るのも悪くないかも、と今の私は思っている。











若林葉子/Yoko Wakabayashi
「Period of Blue」の続きは本誌で
還暦の悪あがき~2026年秋 池田直渡
夢のあとさき~10回目のモンゴルラリー 若林葉子
