SNSが生み出した“弁当レーサー”

文・山下 剛 写真・増井貴光/神尾 成(※1)/和田大輔(※2:提供)

神奈川県の逗子海岸にほど近い弁当屋を目指して全国から多くのバイクが集まってくる。

ツイッターで発信される店主の呟きに惹かれた人たちだ。店の前にバイクを停めて、海岸で海を見ながら弁当を食べるのが“うおへい”のスタイルで、いつしか「弁当レーサー」と名付けられた。90年以上続く老舗でありながら、カタチにとらわれず、昨年は「ahead」を店頭で販売。ツイッターで呼びかけて200冊以上を売り切った。

河川敷からSNSへ

 14年前のことだ。オフロード界隈ではその名を知られたウィリー松浦さんが、手作りで木更津にオフロードコースを開いた。私が訪れると、スコップでコース整備しながらこんな話をした。

 「昔はさ、そこらじゅうにバイクの走れる場所があって、そこへ行けばバイクの乗り方からマナーまで教えてくれる面倒見のいいオヤジがいたんだ。でも今は走る場所すらない」

 高度成長期を経てバブルが弾け、日本から空き地が消えた。河川敷の整備が進み、バイクは走れなくなった。しかしそれは背景にすぎない。松浦さんはこう続けた。

 「自分だけよければイイという人が多かったよね。日本もこの業界も。その結果、先輩にモノを教わる場所が減ってきた。だけど、これからの時代はそれじゃいけない。コミュニケーションとか絆がより大切になってくると思う」

 昭和時代のバイクブーム以降、この業界は沈降の一路を辿っている。松浦さんに話を聞いた’09年は、その暗い底が見えはじめた頃だった。走れる場所がなくなり、バイクが減り、人も消えた。バイクブームからの30年余りの長い間に、激しい断裂が起きたのだと私は感じている。

 しかし今、その断裂を埋めようとするような動きが目立ちはじめた。松浦さんが言ったように、絆を求めたコミュニケーションが盛んになっている。その鍵となっているのは、空き地や河川敷ではなく、SNSだ。

コロナ禍からのツイッター

 「コロナ禍になって最初の緊急事態宣言が出たとき、ばったりと仕事がなくなってしまったんです。毎朝店に出てもやることがないからバイク雑誌を読む。待っててもお客さんは来ない。予約の電話も入らないし、予約帳は真っ白。それがね、1ヵ月くらい続いて。あのときはとにかく人が集まることをみんなが絶対的に嫌がってた。とくにお祝いごとで人が集まれないのは、仕出し料理屋としていちばんつらかったです」

 神奈川県、三浦半島の西の付け根にある逗子海岸。その浜辺から数十メートルのところに店を構える仕出し料理屋の『魚平商店』店主、和田大輔さんはそう話す。和田さんは無類のバイク好きで、今はだいぶ減らしたというが一時期は30台以上のバイクを所有し、自分の手ですべて修理や整備をしている好事家でもある。

弁当レーサー

写真の刺身弁当(950円)が一番人気。午前中に完売することも多い。

 「廃業も考えました。でも続けるにしてもやめるにしても、冷凍庫にある食材を処分しなけりゃいけない。玉砕覚悟でぜんぶ売っちまうか、と弁当の店頭販売を始めたんです。といってもバイク乗りに向けたわけじゃなくて、地元の人たちに『駅前のスーパーもいいけどこっちにも来てほしい』という思いでした。そうしたら友だちがそれをツイッターで呟いてくれたんです。それからすぐに、今でも覚えてるんですけど、埼玉からダブワン(カワサキのバイク)に乗ったニイちゃんが2人来たんですよ。それまで埼玉からわざわざ来る人なんてなかったから、皆に『おーい、埼玉からお客さんが来たぞ、すげえな』って。それでお客さんに『なんでウチに来たんですか』と聞いたらツイッターを見たからだって。そう言われてもピンと来なくて、その時は、何か変だなと思っただけだったんですけど、次の日からどんどんバイクに乗ったお客さんが来るようになったんです」

弁当レーサーの誕生

 和田さんによれば、350円で出した安い弁当が受けたそうだ(現在は販売中止)。大きなメンチカツ、コロッケ、ハンバーグ、目玉焼きと半切りのゆで卵、キャベツ、ごはん。ボリュームがありすぎてフタが閉まりきらず、ぶっきらぼうに輪ゴムでとめてある。昔からバイク乗りの間でよく話題にのぼる“デカ盛りB級グルメ”だ。安くて腹いっぱいになれる庶民の味方の弁当が、魚平商店の名を広め、廃業の危機を消し去った。

 バイク乗りがたくさんやってくるから、和田さんとしては来てくれたバイクの写真のひとつも撮りたくなる。それをお店のツイッターにアップすると、魚平商店まで弁当を食べに行き写真を撮ってもらうためにバイクを走らせる、という行動の価値がさらに上がった。カフェレーサーならぬ“弁当レーサー”の誕生である。

 和田さんが『うおへい商店』のツイッターアカウントを作ったのは’20年5月のことだが、その10年前に個人のアカウントも作っている。こちらではハーレーダビッドソン’42年式WLAを夜な夜な走らせる様子や、最近手に入れたインディアン’53年式チーフをレストアする様子などを公開している。

 つまり和田さんはかなりコアな旧車マニアだ。カワサキの’75年式Z1なども持っていて、走りに行った写真やエンジン修理の写真を公開してるから、とくに若い旧車好きにとって和田さんはただの弁当屋の店主ではなく “メカに詳しいおじさん”でもある。弁当レーサーが根づいたのは、和田さんがバイク好きであり、それほどのエンスージアストでもあったからだ。

弁当レーサー

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バイク相談室になった弁当屋

 修理だけでなくレストアもできる旧車好きの多くがそうだが、和田さんもその気になれば商売にできるほどの腕前である。そのせいで、近頃は弁当を買いに来たバイク乗りから、バイクの購入や修理の相談を受けることも増えているという。

 「高校生のときからカネがないんで、解体屋に行ってモノをもらってくるなり安く買ってくるなりして、自分で原付を直して乗ってました。ポンコツを修理するのが楽しかったし、そこに価値を見出したんです。といっても、ゴミを拾ってきていじっては、またゴミとして捨てていただけなんですけど」

 しかしバイク修理の知識も技術も経験も積み重ねた今となってはゴミにはしない。ガレージには所有してないバイクのパーツも保管し、そのパーツが必要な人へ届くように、ヤフオクなどを通じて無駄にならないようにしている。

 そもそも和田さんの家系にはクルマやバイク好きが多いそうで、ホンダや日産に就職した親戚もいる。クルマ好きの祖父はこの地域で初めてダイハツ・ミゼットを買ったことを自慢し、バイク好きの父親は配達先からもらってきたトライアンフ・スピードツインを大切に走らせていた。

 「親父はガレージでトライアンフをちょこちょこいじっていて、おじさんってのは壊れるバイクを修理して乗るんだと思っていたんです。だから子供の頃は、大人になると誰でも自然とクルマとかバイクが好きになるものだと信じ込んでいましたね。親父は『月刊オートバイ』と『モーターサイクリスト』を定期購読してたんで、僕が生まれるより前の’68年くらいから今もぜんぶ捨てずに取ってありますよ。そういうのを生まれたときからずっと、これがカワサキか、これがホンダかと言いながらパラパラ見てたんです。カタナが出たときも、おお、すげえって」

19歳でサイドバルブにハマる

 逗子を含めたこの周辺は、ヨットやサーフィンといったマリンスポーツが日本で最初に盛んになった土地だ。しかし和田さんは、海にはまったく興味がわかなかったそうだ。

 「まわりがみんなマリンスポーツに傾倒しているのに、僕は機械いじりとかモノづくりが好きで、どちらかというとオタクだったんですよ。ひとりで図書館に行ってずっと本を読んでるとか、小学校の先生が学校に乗ってきたCBX400Fインテグラを休み時間中ずっと見てるとか。フェアリングがついたインテグラは衝撃的でした。かっけえよって。そのときの自分の目線とタンクの高さが同じで、インテグラの周りをサルみたいにグルグルと回りながら飽きずに見ていたことを覚えてますもん。体育祭とか文化祭が大ッきらいでしたし、地元のお祭りとか花火大会もきらいでした。なんでみんな同じもんを見て喜ぶ……あんなもん見て何が楽しいのかって」

 そして和田さんは16歳で免許を取り、19歳のときに陸王を手に入れる事になった。

 「憧れていたのは、ハーレーのFLHだったんですけど、ひょんなことから陸王を買うことになったんです。子供の頃にバイク図鑑みたいなので見たとき、陸王って名前がかっけえなと思って。名前からしても絶対パワーありそうだし、すごそうだと想像してたのに、これがしょぼくて(笑)」

 陸王の’58年式RT2。手元の資料によれば、747㏄V型2気筒の最高出力は22‌psで、最高時速120キロとある。ちなみに、同年式のホンダ・ドリームスポーツCS76は305㏄並列2気筒で最高出力24‌ps、最高時速145キロだから、当時すでに陸王RT2は、旧車並みの性能でしかなかった。見方を変えればホンダの技術力の高さは驚異である。

 「でもそれがなんかね、おもしろいんですよ。なんだこれって。圧縮低いけどトラクターみたいでいいなあと思って、それからサイドバルブにハマっちゃって」

弁当レーサー

バイクはアルバイトの稼ぎだけで賄う

 ところで、和田さんはツイッターのアカウントを稼業と趣味で使い分けているのは前述したとおりだが、経済面でも同様に切り分けている。つまり魚平商店で稼いだ金は家族のためだけに使い、バイクにかかる金は別途稼いでいるという。

 「もともと地元の付き合いで朝晩にメール便のバイトをするようになったんですよ。もう30年も前から週6回、カブで走り回ってます」

 酒屋や米屋といった重い品を扱う商売は、得意客の自宅まで配達するのが昔からの慣わしで、仕出し料理屋も同じだ。バイクしか通れないような狭い道ばかりの港町の、路地裏の奥まで知り尽くしている和田さんのような商売人は、宅配業者にとって格好の助っ人なのだろう。

 「そこで稼いだ金はぜんぶバイクに使わせてもらってます。実は本業で稼いだ金額がいくらなのか知らないんですよ。僕が管理すると使っちゃうんで、ただ目の前をスルーしてるだけですね。ほんとね、お金に興味がないんです。お金よりもバイクが欲しい。もうね、バイクが好きで好きでしょうがないんですよ。高校生のときのエネルギーがずっと続いてますね。家に帰っても、『ただいま、いってきます』って。いや、高校生どころか小学生か(笑)」

弁当レーサー

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ツイッターでの立ち位置

 店主、そして一家の父としての責任と、小学生の気持ちのまま続けている趣味をこんなふうに両立している人はめずらしい。そういうけじめのつけ方ができる人だからこそ多くのバイク乗りが慕い、魚平商店へやってくるのだろう。そんな和田さんの人柄は、彼らが投げかける質問に対する答えにも表れている。

 「旧車に乗ってると部品をどう入手するかに悩みますし、お客さんにも旧車で大切なことは何ですかってよく訊かれます。僕は、人付き合いをよくしてれば部品はめぐってくると答えてます。昔、近所にライラック友の会の会長をやってるおじさんがいて……いや、今もいるんですけど、その人が鉄工所をやってたんですよ。だからここのネジ削ってとかアレ作ってくれと頼むと、その場でフライスや旋盤でジャジャジャと作ってくれるんですよね。ハイライト(タバコ)を吸ってるんで、作業量に応じたハイライトを持っていくとやってくれるんです。そんなふうにバイクのことを教えてくれるおじさんたちがいつもまわりにいたから、知識が自然と身に付いてきたんです。考えてみると、今の自分よりも当時のおじさんのほうが若いんですよね。おじさんたちは僕を否定しなかったから、僕も説教じみたおじさんにはなりたくないですね。若造と対等に付き合ってくれたおじさんたちには感謝してるし、おじさんたちがやってきたことを引き継ぎたいと思ってます」

 SNSでは、おもしろいこと、バカなこと、バイクのことだけを書き綴っていきたいと言う。インスタグラムは上澄みで真実がわからないが、ツイッターは世相を知ることができるとも言う。

 「SNSでの立ち位置はわかってきました。炎上しても別にいいんですけど、政治や宗教には触れないし、思想や信条もどうでもいい。否定的なツイートもしません。今の若い子たちはシャイですし、身バレを怖がってSNSでの人格を作ってるから、実際に会いたがらないんです。でも、きっかけがあれば出てくるんですよ。1分で終わる話でも、SNSだと長文のやり取りになる。会ったほうが話は早い。だから、ツーリングのメッカである宮ヶ瀬ダムで会おうとか僕が言い出しっぺになって場を作ったりもしてます。若い子たちが僕を頼ってくれるのも、彼らの頭の片隅に自分がいると思えるのも嬉しいですしね」

弁当レーサー

バイク乗りの居場所

 バイク人口が減少の一途を辿っている間に生じた断裂は、私たちが集まる場も飲み込んで消し去ってしまった。松浦さんが言っていたように身勝手な言動の結果だろう。だがここ数年で、10~20代の若者にバイクに乗りはじめたきっかけを尋ねると、両親の影響と答える人が増えてきた。この変化の原因がどこにあるのか私にはわからなかったが、和田さんがやっていることを聞いていると答えが見えてくるような気がした。そこに行けば誰かがいて、自分を受け入れてくれる居場所を見つけることは、おそらく誰の人生にとっても大きなテーマだ。そこにいるのが家族であれ、友人であれ、旧車に乗っててバイクに詳しいおじさんであれ、ずっとここにいたいと思える居心地のいい場所が人生には欠かせない。断裂は、きっとバイクとバイク乗りを絶滅させてもおかしくないものだった。しかしどちらも弱くはなかった。滅ぼさんとする得体の知れない力に抗い、押し返す強さを持っていたのだ。

 それはバイク乗りひとり一人が持つバイクが好きだという思いの力であり、和田さんのように受けた恩を繋ぎながら自分たちの居場所を作ってきた、いわば生きる力がもたらした現在だ。きっと和田さんと同じようなことをしている人は全国のあちこちにいて、悲観したこともあっただろうが失望せず、バイクが好きだという情熱を持ち続けてきた。そうした人たちが未来を作っていくのだろう。

 実は昨秋、私はたまたまツイッターで知った魚平商店に興味を持ち、何の気なしにグッツィで出かけ、刺し身弁当を買って砂浜で食べた。今回のインタビューでも待ち合わせ時刻より前にXR250で訪れ、刺し身弁当を買って砂浜で食べた。そのうちまた赴いて弁当を食べたい。三度やれば私も弁当レーサーを名乗れるだろうか。

弁当レーサー

和田大輔/Daisuke Wada

1972年生まれ。神奈川県逗子市にある昭和3年創業の仕出し料理「魚平商店」の3代目。トライアンフに乗る父親の影響からバイクに目覚め、小学4年生の時にポケバイに乗り始めて以来バイクを欠かしたことがない。現在は、ハーレーWLAやインディアン・チーフ、Z1などの旧車の他に、カワサキH2や林道用のセロー250も所有する。

弁当レーサー

魚平商店

〒249-0007 神奈川県逗子市新宿2-9-34 Tel.(046)871-2259
水曜定休(臨時休業あり)

Takeshi Yamashita

二輪専門誌『Clubman』『BMW BIKES』編集部を経て2011年にマン島TTを取材するため、フリーランスライター&カメラマンとして独立。本誌では『山下 剛の旅』『マン島のメモリアルベンチ』『老ライダーは死なず、ロックに生きるのみ』など、唯一無二のバイク記事を執筆。熱心なファンが多い。また『スマホとバイクの親和性』といった社会的な視点からの二輪関連記事も定評がある。1970年生まれ52歳。

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