濱口 弘のクルマ哲学 Vol.38 クルマへの愛情を浮き彫りにした993

文・濱口 弘/写真・シャシン株式会社

長い付き合いのカーショップへ修理に預けていたクルマを受け取りに行った時だった。

 最後の空冷である1994年モデルのポルシェ993カレラの、マニュアルで、ワンオーナー極上車が入荷していた。

 その993のインテリアは、オプションでダッシュボードまで本革で包み、その表皮は30年という月日が、全く感じれられないほど綺麗に保存されていた。3万キロという低走行距離にも納得の、いや、それ以下にしか見えない内装だった。

 毎回運転する時は、必ずグローブを着けていたのであろう。ステアリングやシフトノブといった、手垢がつくはずの細部にその配慮を感じた。乗降時にはシートのサイドサポート部分を潰さないように、注意して乗り越えながら座っていただろう。車両保管はガレージで、日に当たることはほとんどなかったと、塗装の状態からも読み取れた。新車で買っても30年以上の時間経過を魔法のように止める術はなく、このクルマへの毎日、毎時、毎秒の心配りの膨大な集積が、いま私の目の前に佇んでいたのだ。購入された時の年齢からして、このポルシェはその方のクルマライフそのものだったことは間違いないであろう。クルマはもちろんのこと、それよりもどんな方が、どのように乗っていたのかに興味が湧いていた。

 そんな想像を掻き立てられながら強く感心していた私に、きっとこのクルマの買取時に私に託すことを想定していたであろうショップの社長が、涼しい顔で「乗ってみますか?」とキーを目の前で揺らしてきたが、今回に至っては試乗する必要もない気がしていた。

 走り出して路地のカーブをいくつか曲がり、大通りに出て2速から3速の加速を確かめたら、私はもう満足だった。その先1時間運転し続けようが、1分で帰ろうが、もう購入の意思は固まっていた。

 ただ、私の中で条件が一つ、これをクリアしないと購入することはできない重要な部分がある。それは、カレラ純正の17インチホイールを履いていたこの車両に、カレラS、カレラ4Sで使用されていた18インチのホイールを見つけられれば買いたい、とだけ伝えて、ショップを出た。

 足回りにも全く問題は感じなかったが、ホイールとタイヤを変えるならば、私の拘りであるツライチを実行すべく、足回りも一新することにした。ホイールを見つけることが最優先ではあるが、その次は納得のいくサスペンションを見つけるミッションだ。

 選んだ足回りは車高調整付き、減衰調整付きのビルシュテインB16になった。30キロから60キロ程度の移動距離を前提に、よく行くゴルフ場を目的地に想定にした高速道路移動ベースのセッティングだ。

 そうして私好みにドレスアップさせた993でプライベートサーキットのマガリガワを走ってみると、サーキット走行を前提にしていなかったにもかかわらず、エンジンパワー、車重、ボディサイズと全てのバランスの良さに驚喜した。減衰は一番柔らかいレベルで走っていたが、ロールもピッチも全く気にならず、12年以上も若い第2世代ボクスターと同タイムを刻んだ。近代スポーツカーの行き過ぎたオーバーパワーとは対極で、シャーシに対して少しパワーが足りないと感じる方が、クルマの持つポテンシャルをドライバーとして搾り出す事に注力できるのだ。

 1,730ミリという車幅は、駐車場や狭い道でのすれ違いなどに気を使う必要がない。実用域にトルクが集中している最後のポルシェ空冷エンジン、キンキンに冷えるエアコンを備えたコンパクトな車内。使い勝手の良さを表現する、オールマイティやプラクティカルという言葉がピッタリなクルマだ。シフトアップ、ダウンの動作の一つ一つにムラが無く、今の時代に30年前のポルシェを運転すると、その精度の高さに感嘆と賞賛が止まず、いたずらにシフトチェンジをしてしまう。手放す直前まで、きっと元オーナーも同じ思いだっただろう。これは、現代のイタリア車より、ドライビングを何倍も情熱的にさせる、と。

 私は自分の所有するクルマには、最大限の愛情を持って接しているつもりだ。愛情の注ぎ方は人それぞれではあるし、クルマの保管環境もそれぞれ違うので一概には言えない。何本も買い比べ選び抜いた毛ばたきで埃をとり、走行後にボディシートを被せ、駐車する時には、数十分のコインパーキングであろうと、室内に陽が当たらないよう気を使っている。会合の後に不意に友人が同乗することになっても、メッキ部分やパネルディスプレイが指紋だらけだったことはないはずだ。クルマに愛情を持っている自分を表現したメンテナンスだから、かかる努力と時間は惜しんでいない。だからこそ、愛情を掛けられてきたクルマに惹かれるのだ。

 想像するだけでも胸が悪くなるのだが、私もこのポルシェのオーナーと同じように、今は全く売る気のない大切なクルマを、手放す日が来るだろう。その時にただ低走行だとか、美品だからと、経済面だけで買われていくのではなく、このポルシェ993のように、元のオーナーとの時間も一緒に愛してくれる誰かが乗り継いでほしい、と願うのだった。

Hiroshi Hamaguchi

1976年生まれ。起業家として活動する傍ら32才でレースの世界へ。ポルシェ・カレラカップジャパン、スーパーGT、そしてGT3シリーズとアジアからヨーロッパへと活躍の場を広げ、2019年はヨーロッパのGT3最高峰レースでシリーズチャンピオンを獲得。FIA主催のレースでも世界一に輝く。投資とM&Aコンサルティング業務を行う濱口アセットマネジメント株式会社の代表取締役でもある。

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