夜ドラ YORU DORA NIGHT DRIVE

 夜は昼とはまったく違う時間が流れる。どこかで聞いた話だけれど、夜を味方につければ、人は人生をより豊かに彩ることができるという。夜を味方につけるには、クルマに乗るのが一番いい。

 終電も終わりに近づき、人影もまばらになったころ、もう一つの物語が始まる。好きな人と、好きな場所へ—。

 夜のドライブは、多くのドラマを生み出していく。

シフトする、夜

 第三京浜を抜けて横浜に、もしくはそのままもうちょっと足を伸ばして湘南のほうにっていうのは、私のとっておきのドライブルート、自分を取り戻すための再生の特効薬だ。

 ものの本に依れば、なにか落ち込んだときや怒りを感じたとき、いちばん心に傷をつけてしまうのは、ネガティブな感情をひきずってしまうことだという。すばやく気持ちを切り替えるには、呪文のようなワードや手に取るだけでハッピーになれるようなグッズを用意しておくのが効果的なのだそうだ。そういう気持ちを切り替えるためのものを、マインドシフターという。

 もちろんわたしにとってはどうしたってドライブがマインドシフターになるわけで、とりわけ夜のそれは、心がしんと鎮まる感じ、ステアリングと自分の掌、そしてアクセルペダルを踏み込むつま先に気持ちが集中していく感じがとびきり上質な気分転換に思えて、とくに落ち込んでいないときでもフラっと出かけてしまうことたびたびだ。

 夜のドライブに目覚めたきっかけを、今でも私ははっきりと思い出すことができる。

 だって、女には、どうしたってひとりにならなくちゃいけないときがあるんだもの。煩雑な仕事、無神経なクライアント、どこまでも追いかけてくるSNS。普段はむしろそれらを深く愛しているのに、ないと淋しくて、狂おしく求めてしまう日もあるのに、ある瞬間に急に水をかけられたかのように、シュン!と心の火が消えてしまう。誰の声も聴きたくないし誰にも逢いたくない。そうなったら、もう自分でもどうすることも出来ない。また心に灯が燈るのを、ただひたすら待つしかなくなってしまうのだ。

 今はすっかり図太くなってしまったけれど、あのとき私はとても疲れていた。人生というものが、とてつもなく果てしなく茫漠たるモノだと感じていた。それは昼寝の力士みたくドテッと横たわっている、でくのぼうのようだった。永久に終わることのない試練。自分で終わりにすることの出来ないゲーム。はじめてしまったから、最後まで続けなければいけない。そのことに、心から落胆していたのだ。

 そう、単純すぎてお恥ずかしいことこの上ないのだが、私はそのとき恋をしていたのだった。どうしても、どうしても実ることのない想い。好きで好きで逢いたくてたまらないのに、逢ってももらえない人のことを。後にも先にも、あんなに人を好きになったことはない。第一、悲恋だからこそそこまで焦がれてしまったのだ。実を結んでいたら、きっとそこまでのめり込むことはなかった。

 今ならわかる。自分を追い込んでいたのは自分だということを。相手を神格化してしまうくらいに強く自分の心に刷り込んでしまった。迂闊だった。

 当時私が住んでいたのは世田谷のはずれにある狭い1DKのマンションで、そんなキュウキュウの空間で彼のことを考え始めると、息が詰まって涙が出た。恋する相手に受け入れてもらえないことで、世界中から否定されたような気がしていた。…アホである。でも恋する乙女っていうのは、そんなモノなのだ。

 そんなとき、救ってくれたのはそう、クルマだった。自動車評論家として初めて買った真っ赤なイタリア製のスポーツカーは、ポンコツで雨漏りするようなシロモノだったけど、それでどこにでも行った。冬でも手動の重ったるいルーフを自力で開けて、でっかい声で歌を歌って海に向かった。夜の闇が外界から私を遮断してくれた。いくら大声で歌っていても、私の顔を夜が隠してくれた。たどり着いた先では、クルマを降りて散歩することも、一切降りないでただひたすらその辺をグルグル走り回って帰ってくることもあった。海の見える駐車場で、ダッシュボードに足を投げ出して、音楽を聴くこともあった。音楽は夜のなかにゆるゆると流れ出て、凝り固まった私の気持ちを溶いてくれるような気がした。またあるいは音楽を消して、屋根を叩く雨の音をただ、聴いていることもあった。どんなときでも、家でひたすら毒にも薬にもならないような思考にふけっているよりは淋しくなかった。そう、クルマに乗ってさえいれば、孤独じゃなかったのだ。

 今でもそのときの気持ちを思い出すと、キュンと切なくなる。あれだけ好きだったあの人の顔なんて本気で忘れてしまったのに、あのクルマとあの風景のことだけは、まるで昨日のことみたいに鮮明なのだ。

文・今井優杏/写真・長谷川徹

Yuuki Imani

自動車ジャーナリスト兼モータースポーツ専門のMC。軽妙な文章で自動車の魅力を紹介している。バイク乗りでもある。現在はYAMAHA SRV250を所有。今後の活躍が期待される若手女性モータージャーナリストである。

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