オイリーボーイ「白洲次郎」に迫る archives

書籍左から:『白洲次郎の流儀』 白洲次郎、白洲正子、青柳恵介、牧山桂子ほか著 新潮社刊/『白洲次郎』 白洲正子、朝吹登水子、辻井喬ほか著 平凡社刊/『占領を背負った男』 北 康利著 講談社刊/『風の男 白洲次郎』 青柳恵介著 新潮社刊/『プリンシプルのない日本』 白洲次郎著 新潮社刊

日本の戦後復興を陰で背負い、GHQをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた白洲次郎。

彼について書かれた数々の書籍からは、どのような局面でもプリンシプルを貫いた彼の姿が伺い知れる。 そして、生粋のカーマニアであった姿も見えてくる。

留学中にヨーロッパ大陸をめぐる12日間の自動車旅行に出かけ、晩年までポルシェを駆った白洲次郎をオイリーボーイの側面から辿ってみたい。

2009年2月号 Vol.75 特集「ism~オイリーボーイ『白洲次郎』に迫る」より オイリーボーイの嗅覚が『トヨタ ソアラ』に反応した

文・村上智子

NHKドラマスペシャル『白洲次郎』より

 ’89年型ポルシェ『911』から降り立った背の高いスラリとした男性は、「東京からクルマでいらしたんですか?」と少し驚いたようだった。「てっきり新幹線かと思いました」と続けると、穏やかな笑みを浮かべた。トヨタの初代『ソアラ』を開発した主査の岡田稔弘さん、その人だ。

「次郎」からの手紙

 1981年。初代『ソアラ』を世に送り出したその年、岡田さんは初めて「次郎」に会った。というより会いに行かされた。「当時の社長、豊田章一郎氏に、クルマの文句ばかり言うおじいさんがいるから、主査の君が話を聞いて来いと言われましてね。普通のクルマ好きのおじいさんなんだろう、くらいの気持ちで会いに行ったんです」。

 しかし文句を聞きにいったはずが、その日はクルマのことは話題にも上らず、フランス料理をご馳走になっただけだという。独特の雰囲気の人だなという印象が残った。しかし、その1週間後、「次郎」から手紙が届く。そこには『ソアラ』への苦言が並んでいた。

 「白洲さんが乗っておられたのは、発売直後の初代『ソアラ 2800GT』4速ATの白でした。それに対して、「ステアリングの握りが太すぎる」、「最小回転半径が大きすぎる」、「バッテリーの位置が前過ぎるし、容量が小さすぎるのではないか」といった内容が、箇条書きにされていました」。

 確かに、バッテリーはフロントアクスルより前に設置していたため、鼻先が重くなる。ただサイズについては、決まった基準のもと、しかるべき計算で割り出されたもので問題はなかった。けれども、「普通のクルマ好きのおじいさん」でない「次郎」は、机上の論理ではなく、自分が重ねてきた経験をもとに指摘してきたのだ。

 「手紙を貰った後、実際に市場から出てきた声と重なるものもありました。すぐに設計変更した所もあれば、2代目に生かしたものもあります」。

 太さを指摘されたステアリングは、ワンオフで細いものを作り、赤坂にあった「次郎」の駐車場で岡田さん自らが工具を手に付け替えたという。

基本を忘れるな

 『ソアラ』が誕生したのは、白洲次郎が傘寿さんじゅ(80歳)を迎える1年前だ。新車が出たその年の内に、情報をキャッチして購入していたのだから、そのオイリーボーイぶりには驚かされる。彼は、80歳で自ら運転することを止めたと言われているが、なぜ文句を言うほど『ソアラ』にこだわっていたのだろうか。

 そもそも白洲次郎は、エピソードにこと欠かぬほど「原理原則」を重んじる人として知られている。同時に、開戦前から日本の敗戦を見越して田舎へ移住するような、物事に対する客観性と先見性を持ち合わせていた。そうした本能で何かを感じ取ったのかもしれない。

  「『ソアラ』は、新しい技術を全部詰め込む使命を背負っていました」と岡田さん。右肩上がりの経済成長を続け、日本国中が熱気と意欲に満ちていた時代である。

 白洲次郎は『ソアラ』に、世界で誇れる可能性を見い出した反面、時代に流されずに、基本からぶれない大切さを訴えたかったのかもしれない。

 先の手紙には、小さな包みが添えられていた。中にゴルフボール1ダースが入っているのを見て、岡田さんは「あっ」と思った。

 「食事の席で、ゴルフがちっとも上手くなりませんとこぼしたんです。白洲さんは、あんな止まったボールを打つのがうまくならんとはおかしい! と言われてました。それを覚えていたんでしょう。豪快な一方、そういうきめ細かな気遣いのある人でしたねぇ」と懐かしむような表情を浮かべた。以後、2人の交流は「次郎」が亡くなるまで4年にわたり続いたという。

岡田さんは、トヨタ主査時代からポルシェで通勤するほどクルマ好きだ。
「次郎」と作った2代目ソアラ

 「次郎」は、岡田さんが上京する度に、馴染みの鮨屋に連れて行き「大切なのは、No Substitute、つまり他に替わりのないものを作ることだ。自分が誇れるクルマを作りなさい」と語っていた。

 「2代目の『ソアラ』は、指摘されたステアリングは細く、バッテリー位置は室内寄りにしました。トレッドやホイールベースのわりに、最小回転半径も精一杯小さくしました。でも具体的な指摘より、コンセプトやフィロソフィーの影響が大きかったですね」。

 「次郎」とは、2代目が完成したら乗ってもらう約束をしていた。しかし、3ヵ月遅かった。

 1986年2月、2代目『ソアラ』発売。岡田さんは完成した『ソアラ』に乗り込むと、墓前に報告しようと、「次郎」が眠る兵庫県三田市の「心月院」へと静かにクルマを走らせた。1人きりの車内で、何を思っていたのだろう。

 岡田さんに、2代目は、気に入って貰えたでしょうか? と聞いてみると「また文句を言われたでしょうね」と笑顔が返ってきた。

初代『ソアラ2800GT』は、白洲次郎の最後の愛車となった。

2代目『ソアラ』は、次郎の死後、妻である正子の「そのクルマ買った」のひとことで白洲家へ迎え入れられた。
最期までオイリーボーイ

 岡田さんが、「次郎」がどんな人物だったのかを知ったのは、亡くなってからだった。

 「驚きました。知っていればもっと色々お聞きしたかった」。

 しかし思い出話を聞けば聞くほど、岡田さんとの付き合いは良い意味で変わらなかっただろうと感じずにはいられない。余計な詮索をせず、文句を言うおじいさんとして付き合った岡田さん。相手の地位にとらわれず、人として付き合う「次郎」。クルマへの情熱を互いに嗅ぎ取れさえすれば、それ以外は大した意味を持たなかったに違いない。

 そんな岡田さんも唯一気にしたのが、「次郎」の愛車ポルシェ『911』の行方だ。トヨタの東富士研究所に乗り付け、「『ソアラ』の開発に役立ててくれ」とポンと置いていったものだ。

 「一度だけ研究所で見かけたのを最後に、どこを探しても見つからないんです。試験用のクルマは、必要なデータを取った後は衝突試験で終わる。例外はありません。想像ですが、白洲さんのポルシェも同じ運命を辿ったのでしょう」。

 なんてもったいない、と言いたくなるが、原理原則を重んじた「次郎」の愛車だ。こんな相応しい最期はないだろう。

 戦後の混乱の中、「白洲次郎」は日本が「国」として独り立ちするための礎作りに奔走した。時が経ち、見違えるような発展を遂げていくこの国を、彼はどのような気持ちで見ていたのか。もしかすると、世界に誇る技術力を全身にみなぎらせた『ソアラ』に、クルマの、さらにはこの国の未来を重ねていた、と考えるのはいささか強引かもしれない。そんな妄想を差し引いても、最期までオイリーボーイとしての情熱を持ち続けたことだけは確かなのだ。

岡田稔弘 TOSHIHIRO OKADA

1935年群馬県生まれ。京都工芸繊維大学卒業後、トヨタ自動車工業に入社。デザイナーとして『クラウン』や『カローラ』の開発に携わった後、主査として初代『ソアラ』を開発。2代目、3代目の担当を経て、’91年1月に退社。現在(当時)は株式会社槌屋の相談役を務める。

「オイリーボーイ「白洲次郎」に迫る archives」の続きは本誌で

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「白洲次郎」のポルシェ『911』 吉田 匠

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