物事を突き詰めていくうちに、最初の目標から遠ざかってしまうことがある。
どんなことであっても行き過ぎてしまうと、本来の目的を見失ってしまうのだ。
理想という感情的な判断や、理屈という未来図だけで答えを追い求めると、現実との間にギャップが生まれてしまい、必ずバランスを崩すことになる。
盗んだバイクで走り出したのはパッソルだった
山下 剛
尾崎 豊を聴いたことがない人でも「盗んだバイクで走り出す」というフレーズを聞いたことがあるのではないか。あるいは、それを知っているから彼を嫌いだという人もいるだろう。とくにバイクを盗まれた経験があるなら当然だ。窃盗罪を堂々と歌い金儲けするなんて、盗人猛々しいを地でいく厚かましさである。窃盗罪で吊るし上げられないのなら社会的制裁を加えて然るべきだ。
いっぽう、尾崎 豊のファンたちは、バイクを盗んだくらいでおおげさだとか、彼を抑圧した社会や学校のせいだと擁護したり、はたまた盗んだバイクは何だったのだろう、CBX400FかそれともZ400FXかなどと妄想したりする。
どちらの気持ちも言い分もわかるつもりではあるが、どっちもどっちだ。たかが落ちこぼれた高校生のロックンロールにすぎない。前者は正義を、後者はロマンを求めすぎである。この歌の後日談として、尾崎本人がインタビューで語ったところによれば、盗んだバイクの正体は実兄のパッソルだったという。おそらくは兄に黙って鍵を持ち出して友達とパッソルを走らせた経験がモチーフなのだろう。
事実はたいていつまらない。だからこそ人は物語を求める。現実の生活が単調なほど、そして苛烈なほど、ロマンを感じさせる物語に希望を見出し、夢を見る。
ただし物語と創作者は切り離しておかなければならない。でなければ、ミステリー作家は連続殺人鬼だし、アクションヒーロー映画の監督や俳優は大量殺戮者だ。ましてや物語の創作者に正義だったり、期待を裏切られた責任、罪と罰を押しつけたりしてはいけない。それを向けていい対象は神だけだ。神はそのために存在している。どうにもできない怒りや悲しみの矛先として、人間は神を発明したのだ。たとえ自分自身の無知や過ちが招いた不幸であっても、都合の悪いことはぜんぶ神のせいにしていいのである。 だが経済と科学の発展した近代の国々では神を忘れてしまったせいで、責任や罪を個人に押しつけがちだ。すると何が起きるか。創作者は物語を作ることをやめるか、死ぬのである。
尾崎 豊は26歳のとき、民家の庭で全裸で倒れているところを発見され、病院に運ばれて診察を受けるも数時間後に死亡した。憶測も含めてさまざまに死因が報じられたが、つまるところ酒と覚醒剤による野垂れ死にだ。限りなく自殺に近い事故死である。彼の虚像を作り上げた音楽ビジネスと、その虚像を盲信したファンによる他殺といってもいい。
彼の死を知ったとき、私は少なからず衝撃と落胆を覚えた。しかし同時に、タイミングといい、死に方といい、彼にふさわしいと思ったし、格好いいとすら思った。彼は個人として生きることよりも、尾崎 豊というロックンローラーを演じきったのだ。
もちろんそれは真実でもなく、私の勝手な妄想である。音楽ビジネスが作り出した虚像を求め、彼がそれ以外の何者かに転じることを認められない気持ちが私にそう思わせている。
尾崎が好み、影響を受けたミュージシャンに浜田省吾がいる。尾崎が所属事務所とトラブルになったとき、浜田は彼を自分の事務所に招き入れたことがあるから、尾崎は浜田を慕い、浜田は尾崎を後輩として気にかけていたのだろう。その浜田が尾崎の死後、「彼は音楽を楽しめていたのだろうか」とコメントした記事を見た覚えがある。かなり婉曲な表現だが、浜田が言いたかったのは、プロデューサーには素顔で笑った写真の露出を禁じられ、メディアに貼られた「十代の教祖」とか「若者の代弁者」のレッテルを剥ぎ捨てられなかった苦悩と、商業音楽の宿痾のことだろう。
そんな浜田は’90年に発表した『SAME OLD ROCK’N’ROLL』の中で、「俺はピエロでも医者でもないんだぜ、ただギターを弾いてるだけさ」と歌ってみずからの虚像を暴き、ファンの過剰な期待を押し返した。その頃の浜田は鬱状態にあったという。
作品を生み続けていれば、テーマもモチーフも作風も変わる。作品はひとり歩きし、ファンもリスナーもそれぞれ都合よく解釈する。表現者と受け手のギャップは、一部では致命的に広がり、深まっていく。
これは音楽に限らない。すべての人がそうだ。たとえば誰かが髪型や衣服を変えると、似合わないと一方的に決めつけたり、前のほうがよかったなどと言ったりする。人間には他人の社会的人格や外見を勝手に決めつけ、型にはめ込む癖がある。癖というよりは、集団生活を生態とする動物の本能かもしれない。この行為はSNSによって盛んになった。そうしないよう意識してはいるが、私も不意にはめ込みをする。彼の死に様を格好いいと思っていることもそうだ。私も尾崎を殺した不特定多数のひとりなのである。
それでも何度となく、彼が生きていたらどんな歌を作り、歌うのだろうと想像している。相変わらず虚像もドラッグも捨てられないまま歌っているかもしれない。あるいは虚脱から這い上がって、かつての自分を懐かしむ穏やかな笑みとともに歌える境地に辿り着けたかもしれない。
いつまでも這い上がれず、どこにも辿り着けなかったが、命を削って作り上げた歌の数々は、しっかりと生き続けている。
Takeshi Yamashita
「突き詰めた先に何があるのか」の続きは本誌で
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