パリダカに初めて参戦した日本人として知られる横田紀一郎。
アパルトヘイト取材特派カメラマンとして渡った南アフリカで、ジャーナリストとして活動した時代を紹介した前編に続き、後編ではパリダカを舞台に華々しい活躍を見せた横田と、パリダカから引退し、雌伏の時を経て、自動車環境探検家として新たに活躍の場を見出した横田の今にスポットを当てる。
数度に及んだアフリカ冒険旅行の成功とその冒険譚をまとめた単行本の発行、そしてアパルトヘイト潜入取材レポートをきっかけとして、横田はジャーナリストの肩書も使えるようになり、マスメディアとのコネクションを得た。
そして横田の活動範囲は活字媒体のみならず、テレビにも拡がっていく。東京オリンピックを機にカラーテレビの普及が一気に進み、テレビが強大な影響力を持つメディアとなった頃だ。
「運がいいことに日本テレビの中に入れたんですよ。のちに局長になる人の彼女が僕の友達で、ADをやってたんです。日テレの制作班に企画を持っていくと、横から別の班の人が『おっ、横ちゃん今度はどこ行くの?』なんて話が広がってく。運がよかったよね」
それからはテレビの海外ドキュメンタリー制作が活動の中心となり、制作会社としてACPを起ち上げる。ACPはのちに横田が率いるラリーのチームにもなり、パリダカなどの国際ラリーに数多くの選手を送り出す。ACPは日本人が国際ラリーに進出していく大きな契機を作った集団である。
横田がパリダカを知ったのは’80年のことで、事務所のスタッフが読んでいた『CARグラフィック』に載っていた古いベスパやルノーが砂漠を走っている写真を見たことがきっかけだった。
「もう血がバーッと上がっちゃってさ。それから半年でもうパリにいたよ」
二駆のスターレットで日本人初のパリダカへ
当時はまだ日本でその存在を知る者は少なく、パリダカに参戦した初の日本人が横田である。’80年1月1日、チームACPとしてスターレットとランドクルーザーの2台が、第3回パリ・ダカールラリーのスタート地点に立った。二輪駆動のスターレットながらも、20日間の激走の末、ダカールに到達し、時間外完走を果たした。
「パリダカなんてみんな四駆で走るもんだと思ってる。でもアフリカの人たちは二駆のクルマで砂漠を走ってるし、アフリカの砂漠はそれまでもパブリカとかセリカやコロナで僕もさんざん走ってきたからね。だから二駆でやってやるって。
それに日本のクルマは強いんだ。日本人が焼け野原から世界に出ていくためにはさ、みんなが危ねえと思ったことをやって成功させてこそ目立つわけでしょう」
だが、横田がパリダカに参戦し続けたのは血がたぎったからだけではない。横田が何かをはじめるとき、そこには必ず理由がある。
「〝なぜ〟がないと意味がないんだよ。僕がなぜパリダカに出たかっていうと、まず日本車はすごいんだってことを知ってもらいたかった。日本のクルマって強いんだよ。壊れたことないもんね。
もうひとつは、クルマに名前があることを知ってもらいたかったから。当時はどのメーカーでも四駆はジープって呼ばれてたし、トラックはトラックとしか呼ばれてなかった。でもどのクルマにもちゃんと名前があるんだ」
’85年、横田はアフリカ縦断やパリダカ参戦の経験を存分に生かし、日清カップヌードルのテレビCMでクルマとバイクのコーディネートや、パリでオーディションを受けた出演者の世話役も務めている。砂漠でカップヌードルをすする若いライダーの映像をバックに『ガラス越しに消えた夏』、『フォルティシモ』、『翼の折れたエンジェル』が流れたテレビコマーシャルを覚えている人も多いだろう。今も多くの人々の記憶に残る名作映像は、横田のサポートなしに生まれなかったのである。
アフリカ冒険で横田が写真を撮っていたことは前編で触れたが、もちろんパリダカ参戦時もシャッターを切り、フィルムに焼きつけてきた。
「僕は一部始終を撮ってやろうと思ったわけ。だからあのときの写真ってカッコいいですよ。
二輪駆動のスターレットが砂煙上げてぴゃーっと下ってる、あの写真だって競争してるっていうのにいっぺん通りすぎてからさ、『おーい、一回戻ってくれ』ってやってさ。その間にどんどん抜かれてくわけ。それでもあれが生きてるんだよね」
アフリカの大地の雄大さを、サハラ砂漠の過酷さを、そこで生き抜く人々の強さを伝えたいという横田の思いは、ジャーナリストとしてアパルトヘイトの実態を伝えたときも、カップヌードルのテレビコマーシャルを作ったときも変わらない。
もうひとつ、パリダカで横田がこだわっていたことがある。
「クルマのエンジンとかを改造したことはないよ。なぜなら誰もが買えるクルマじゃないと意味がないと思うから。みんなが手に入らないものでやったって意味がないじゃない」
亡き妻に褒められた「リバーレイド」
そうして毎年パリダカに出場し続けた横田だが、’92年が最後となった。白血病にかかった妻の治療によりそうためだ。これまでの度重なる海外遠征で、横田は妻や子供とすごす時間をあまり持ててこなかった。何度目かのアフリカ行では、結婚したばかりで妊娠9ヵ月の妻を日本に置いて旅立ったこともあったくらいだ。
パリダカから退くとともに、横田はドキュメンタリー制作のための海外遠征からも身を引いた。
「テレビの仕事がポーンとなくなって1年くらい何もやってないときに思ったんです。俺って何なんだろうって」
それまでアフリカをはじめとする海外諸国に出かけて、現地の人々の暮らしぶりや自然環境の美しさなどをその目で見て、横田紀一郎というフィルターを通し、写真や映像にして伝えてきた。しかしそれはマスメディアがあってこそだった。そのつながりが途絶えたとき、横田は心がからっぽになってしまったという。
好奇心を満たすこと。世界を知ること。そこで得た知見から自己を見つめ直すと、再び湧き上がる好奇心を抑えきれず日本を飛び出す。それを自分だけで専有していたのでは生産性がないから、雑誌やテレビの記事や広告を使って世間に知らせる。それは横田という人間を作る核の大きなひとつだったのだろう。
その頃の横田は50代である。戦後日本とともに時代を全速力で駆け抜けてきた疲れもあったのかもしれないし、連れ添ってきた妻が不治の病にかかったことのショックも大きかったはずだ。
「いろんなものが途絶えるときがあるんだよね。何もできてない期間があるんです。それでもいつも思ってたよ。いつか来る、いつか来るって」
そしてこのことが、横田の視線と行き先を変える。まだまだ疲れている場合じゃない。この状況でもできることをやればいい。横田は再び顔を上げ、前を向く。
「やることなくて時間はあったからさ。友達がいる大井川へ行って歩いてたら、清流に自転車だとかタイヤだとか捨ててるやつがいるわけよ。しょうがないから拾って掃除してたんですよ。
で、そのときに気づいたのが川の地図がないってこと。だからカヌーで川下ってるときに渦巻いてるところに行ってしまって事故が起きたりする。そういうことをいろいろ考えていたら、川でパリダカみたいなものをやればいいんだと思いついた」
それが『リバーレイド』だ。人とクルマと自然の共生をコンセプトとしたこのイベントは、舞台を砂漠から日本の川へと変えたものの、横田がこれまでにアフリカをはじめとする諸外国をクルマで駆けめぐってきた経験を凝縮させたのである。カヌーを積んだクルマに乗り、コマ図を見ながら目的地を探す。川地図で危険箇所をチェックしながら、カヌーで川を下る。川のゴミを拾い、水辺で調理をして飯を食べる。いわばラリーの発展型だ。
「リバーレイドは……僕の女房が死ぬときにね、あいつがいちばん褒めたよ。白血病で亡くなる前に、あんたがやったことでいちばんいいことはリバーレイドだった、つって死にやがったよ」
照れくささを伴う感情がわいたとき、言葉づかいが荒くなるのは江戸っ子の癖だ。妻が褒めてくれたと話す横田の表情はやわらかく、実にうれしそうだった。
還暦を過ぎてプリウスで五大陸10万㎞の旅に
「還暦からがおもしろいんだ。もうね、引くことがないんだから。進むしかないんだから。60歳すぎてそういう仕事やってるうちに何かが誘発してね、僕はそこから世界五大陸をまわったんよ。
年金もらえてたから何もしなくてもいいんだとも思ったんだけど、そう思ってる自分が情けなかったわけですよ。こんなもんで生きていくのかって」
’99年、横田は『ハイブリッドカー 環境紀行』として発売後2年のプリウスを走らせてアメリカ大陸1万kmを横断し、世界の環境問題最前線を見る。翌年はヨーロッパを巡り、翌々年はサハラ砂漠縦断をプリウスで成功させた。そのときの横田が還暦である。
それから10年をかけてプリウスで五大陸の10万km以上を走破したが、横田は止まらない。さらに国内を縦横無尽に駆けめぐり、HVやPHVの可能性と未来を日本の人々に見せて回った。
「新しいものを見たいよね。わくわくしたいですよね。僕なりにありますよ、クルマの未来図。僕が死んだあとでもクルマ社会の日本がつぶれてしまわないための将来を考えてます。でも、コロナになって計画していたことがぜんぶパーになっちゃった。これは戦争のときと同じ。ここがスタート」
いま、横田はトヨタ・MIRAIに可能性を見出している。水素と酸素の化学反応によって発生させた電気で走行する燃料電池車(FCEV)だ。
「日本には水素ステーションが160もあるんですよ。でも知られてないから、これを世に知らせたいと思ったわけ。それでいま『日本の水素ロード』という活動をやってるんです」
水素ステーション認知のほかに、横田がいま注目しているのが、牛糞から水素を生成するシステムだ。北海道・鹿追町にあるバイオガスプラント『しかおい水素ファーム』を訪れ、牛糞から生成した水素だけでMIRAIを走らせて宗谷岬と納沙布岬を巡った。
「牛のうんちで走れるクルマで宗谷岬に行ったらおもしろいでしょ。これがクルマの未来なんだよ。なぜ水素なんだってもうひとつは、水素エネルギーを使わない限り、また戦争が始まりますよ。今、ロシアのせいで天然ガスはどんどん高くなってて、脱炭素化でガソリンは使いにくくなってる。エネルギーの取り合いで戦争は始まるんですよ。どうしたら戦争しなくて済むかってことなんだけど、僕がこう話してても理解しない人が聞いたら、あの野郎うるせえなあ何言ってんだって思うよね。戦争なんてするわけないじゃんって。でも戦争ってそのくらいではじまるんだよ。
プリウスであっちこっち出かけたときも今と同じ。また横田がなんかやってるよって。でもちゃんとハイブリッドの時代が来たじゃない。認められてから認めるんじゃなくて、僕はいつもそういう想像をしてる。MIRAIもそうなると思ってますよ」
夢は平和の道、アジアハイウェイの走破
焼け野原でクルマに乗りはじめてから60年以上、横田はずっと走り続けてきた。海をまたいで五大陸を走り、巡った国は百以上。ひょっとすると日本人でいちばん長い距離、多くの国々をクルマで走った人間かもしれない。そうして世界を駆けずり回って学んだ見聞を伝えてきたが、まだまだやってないことや伝えきれていないことがある。
「ほんとのこと言うとね。アジアハイウェイってあるでしょう。東京が起点なんだけど、ここをずーっと行くとね、どこに着くと思います? パリですよ。韓国通って北朝鮮抜けて中国を抜けて、ベトナムに出て。それからトルコのイスタンブール抜けてパリまで行くんだよ。おもしろそうでしょう。まず北朝鮮をどう説得するかだよ。わかんないよ、意外と通してくれるかもしれないんだよ。だってさ、それやったからって何の問題があんの? わずか2日間で越えちゃうんだよ、300㎞しかないんだもん。
要するに平和の道だよね。これをパリ・オリンピックに合わせてゴールするようにやりたいと思ってたの。MIRAIでね。でも水素ステーションがないからムリなんだ。だからMIRAIじゃなくてもいいし、たとえ僕じゃなくてほかの誰かがやってくれてもいいですよ」
地球規模の冒険と挑戦を続けてきた横田にとって、アジアハイウェイを走ってパリまで行くことはきっと集大成なのだろう。それを自分がやらずとも、次の世代を担う誰かがやればいい、それがいまを未来につなげることだし、現代の冒険であると横田は考えている。
一方でこうも言う。 「今いちばんの冒険はね、今日1日を生きることなんだよ。小さな冒険だけど、この歳になってみるとほんとそう思うよね。1日をちゃんと生きるってことだよ。生きるって大変なんだ。生きるって何かって考えると、生きてるのイヤんなっちゃうよね。だからどうすれば楽しめるかってことを模索してる。まだやったことのない新しいことをね。だから牛のうんちで走ったっていうのは、ひとつの明かりかな」
今年82歳になった横田だが、体力を維持するため9年前から毎日1万歩を歩き続けてきた。いつでも冒険に旅立てるための準備だ。
「金比羅山に行ったことある? 手を使わなきゃ上がれないような急な階段がずっと続いてて、半分くらい上がったところで帰ろうとしたら、そばにいた3人のばばあが竹の杖で僕のケツを突っつくんだよ。しょうがないからもう少し上がってったら、門の陰に隠れてこっち見てんの(笑)。あれで僕の運命は変わったね。這いながら階段上がってて下を見ると、血ヘドの痕みたいなのがある。それでも上がった人がいると思ったときに、そうかあ、それぐらいがんばらなきゃ達成できないんだなと思ったわけ。その翌日から毎日1万歩、歩き始めたんだよね。
みなさんね、やりたいことがあってもじっくり考えて来年やろうとかいうでしょ。僕は来年いるか分かんないじゃないですか。その点、僕は意志強いよ。やるっつったら何しようがやるんだ」
横田は自分の年齢も加味してそう話すが、本質的にそれは確率の問題にすぎない。82歳だろうが18歳だろうが、明日も生きていられる保証はどこにもない。ラリーも冒険も、並外れた強い意志と覚悟なしではスタートにすら立てない。
横田はこれまでもそうした信条で行動し、冒険、ラリー、写真、広告、テレビ番組制作、イベント運営などで数々の結果を出してきたのだろう。そして今、自動車環境探求家なる肩書をつけた横田は、未来を探してまだまだ走り続けている。
Kiichiro Yokota