クルマとバイクとサブカルチャー

横浜ケンタウロスとは何か 文 / 写真 増井貴光

 僕が「横浜ケンタウロス」を知ったのは、18歳か19歳の頃だった。今から40年も前の話だ。当時僕は、歌舞伎町にあったジャズ喫茶の3階を溜まり場にしていたバイククラブのメンバーだった。そこで知り合ったのが、能楽師として有名な大倉正之助さんだ。学生で時間が比較的自由になることもあって、大倉さんと一緒にバイクで走ったり、仕事に同行して付き人のようなことをすることも多かった。彼がある日、「おもしろい人と会ったぞ」と言ってきた。彼が知り合ったのは、横浜ケンタウロスのボス、飯田繁男さんだった。それから大倉さんは、横浜ケンタウロスのクラブハウスへ頻繁に通うようになり、それに僕も同行した。それほど時間はかからず大倉さんは、横浜ケンタウロスのメンバーとして毎月、満月の夜に長者ヶ崎に集まる「満月ツーリング」で鼓を打つのが恒例になった。この満月の集いはかなり長く続き、バイク乗りが主催する能の公演「横浜双○能(よこはまふたわのう)」に繋がっていく。

横浜ケンタウロス

 満月ツーリングに通うようになった頃だっただろうか、僕も何度かボスに呼び出されるようになっていた。横浜ケンタウロスのクラブハウスから路地を抜けた場所にある「ミントンハウス」というジャズ喫茶に連れていってもらうこともあった。当時、横浜ケンタウロスは、「週間プレイボーイ」で連載された『ケンタウロスの伝説』という漫画の影響もあって日本中からバイクに乗る人たちが集まってくる場所だった。そのほとんどは、メンバーになって“横浜ケンタウロスの看板(デニムの背中にあるエンブレムワッペン)”を背負いたいと思っていたと思う。ところが僕は、漫画のことを知らないままクラブハウスに通うようになっていたのだ。当時のクラブハウスは、横浜市中区の山下町にあり、1階はバイク関係のものを扱うショップで2階がクラブハウスになっており、いつも強面の男たちが集まっていた。訪ねていくとボスの奥さんが「大将は2階にいるよ」と通してくれることが多かった。ある日、ボスに呼び出されてクラブハウスに行くと「お前もメンバーになれ。看板は用意してある」といきなり言われた。しかし僕はこの申し出を断ってしまったのだ。暴力的な匂いや凄みを持つメンバーが多かったが、正反対に大倉さんを始め芸術性や文化的な背景を持つメンバーもいた。モーターサイクルクラブと一言で済ませられない混沌としたクラブだと感じていた。二十歳そこそこの僕には、カンバンには憧れてはいても背負う資格も背負い続けていく覚悟も無いと思ったからだ。

 それから何年かして結婚したり仕事が忙しくなったり、どんな理由だったか定かでは無いが、横浜ケンタウロスとの距離ができていた。しかしある日、大倉さんから「ボスの奥さんが亡くなった。すぐに来い」と連絡が入った。第三京浜を飛ばして横浜へ向かった。クラブハウスに着くとショップのある道路の両側に数えきれないほどのバイクが並んでいた。クラブハウスにはとても入りきれる状況ではなく、僕はショップの前で顔見知りと話すでもなく、誰かから回ってきたワイルドターキーで献杯をしていた。強面だと思っていた連中が肩を落とし、泣いている男も多かった。翌日の葬儀には、日本中から集まったバイクが連なった。

 その後、少しして久しぶりにボスから呼び出されて「お前の看板は今も用意してあるぞ」と告げられた。既に30代になっていた僕は、ふたつ返事でその申し出を受けた。横浜ケンタウロスは、メンバーになる時に後見人がつく。当時仲の良かった先輩メンバーがボスに「タカ(僕)の後見人を俺にやらせてくれ」と直談判したがボスに却下された。その夜、先輩メンバーと飲みに行くと「俺が後見人をやりたかった」といつまでも泣いていた。後見人には、それほど大きな意味があったのだ。しばらく経って僕は、横浜ケンタウロスの看板を背負うようになった。最初に断った時に思った看板を背負う資格や覚悟ができたのかは分からない。それでも後見人になろうとしてくれて今はもう亡くなった先輩メンバーや兄貴分である大倉正之助さん、そしてボスの想いを背負っているんだと思っている。

横浜ケンタウロス

横浜ケンタウロス

1964年に横浜で4人のメンバーから結成されたモーターサイクルクラブ。ニュースペーパーや写真集の発行、映像作品を制作するなど、バイクで走ることを哲学的に突き詰めて来た。能楽師を招いた満月ツーリングを主宰する等、芸術的な活動も行っている。

 横浜という街は、今では大分薄れたが独特の空気感のある街だと思う。まだ戦後の香りが漂う1964年に横浜で発足したモーターサイクルクラブである横浜ケンタウロスは、暴力的側面もあれば、能の公演を主催するなど、文化的な側面もある。ある意味で横浜という街の縮図でもあったんじゃないだろうか。そして昨年の10月にボスが亡くなり、11月に横浜で催した送る会では日本中から大勢のバイク乗りが集まって横浜の街を走った。ボスがいなくなった今、横浜ケンタウロスは、大きな分岐点に立っている。「横浜ケンタウロスとは何か」 60年近く続くモーターサイクルクラブ、背負っている看板の意味はそれぞれに違う。それでも背負ってきた先人たちの想いが繋がって形になった。繋がりの無い看板に意味は無い。横浜ケンタウロスがどうなっていくとしても僕は、ボスや先輩たちの想いと自分自身のプライドとして看板を背負って生きていくしかないと思っている。ボスの言葉通り、いつまでもバイクに乗るヤツでありたいと願って。

横浜ケンタウロス

ケンタウロスの伝説

「横浜ケンタウロス」を題材にしたこの劇画は、『週刊プレイボーイ』で1981年の春から半年に渡り連載された。作中の横浜から神戸までコーヒーを飲むためだけにバイクを走らせる“600マイルブレンド”を真似するライダーが続出した。日本でデニムベストの背中にチームのワッペンを貼るスタイルの元祖でもある。

Takamitsu Masui

1965年生まれ。映画『世界最速のインディアン』で注目を集めたアメリカのユタ州のソルトレイク(塩湖)で行われる「ボンネビル・ソルトフラッツ」の撮影をライフワークにしている二輪フォトグラファー。横浜ケンタウロスのメンバーでもある。「バイクのニュース」で「美味しいアジフライを求めて走る旅」を連載中。

横浜ケンタウロスとは何か