aheadフィルムがもたらす効果は、SDGsに偏ったものではない。
昨年からaheadフィルムを採用しているアピオ(株)の代表である河野 仁氏にaheadフィルムの意外な効能についてお聞きした。
「本って、小さくてもちゃんと重さのある、三次元の立体物ですよね。塊としてはもちろん、1ページ単位でもそう。一枚の紙がどれだけ薄くても指先には確かな量感があって、それをめくる時の手触りや、そこから漂ってくる匂いもさまざま。本の魅力や機能は書かれている文字だけではなく、五感を通して入ってくる官能性にあると思います。それを伝えるには、まず手に取ってもらう必要があり、そこへいざなうのがカバーのデザイン。実は昔、本の装丁家に憧れていたんです」
そう語るのは、ジムニー専門のパーツメーカー「アピオ」の代表を務める河野 仁さんだ。オフィスの壁面には堅牢な棚が設えてあり、書籍や雑誌、辞典、模型、絵、写真、書……といったあれこれが溢れんばかりに並ぶ。クルマはもちろん、文具や鞄などもプロデュースし、オートバイ、音楽、時計、シガー、万年筆、書道、カフェ、バー……といった趣味の世界に精通。それらが登場する雑誌や本にも目がない。だからこうして対面すると、縦横無尽に話が展開していく。「あ、そうそう。これ見たことあります? 僕がまだ学生の頃に……」と、その思い出話にまつわる本が机上に広げられ、いつも時間を忘れることになる。
雑誌の中にかつて憧れた欧米のカルチャーを見つけ、小説の中で知った大人の世界へとイマジネーションを膨らませる。それらは何十年経っても忘れられるものではなく、ページを捲れば捲るほど、時が巻き戻されていく。80年代を彩ったモノやコトに触れ、あの上昇気流を躰に感じた世代ならなおさらだ。
雑誌は、発刊から数か月もすると販売ルートから外れる。一方で、小説の流通時間はずっと長い。小説が出版される時、多くの場合はまず単行本として世に出る。ハードカバーとも呼ばれ、硬く厚みのある表紙で製本されたものだ。それから数年が経った後、今度は文庫本に形を変える。この時、ハードカバーはソフトカバーになり、サイズは小さく、薄くなる。限りある本棚のスペースが有効に使えるようになること、なにより価格が手頃になることがメリットだ。その作家の熱心なファンであっても、同じタイトルの二冊があれば、文庫本を手にする人がほとんどだと思う。
文庫本は、実は単行本よりも中面の完成度が上がっている。誤字や脱字など、なんらかの間違いがあった場合、新しく印刷される時に修正されるからだ。作家本人や編集者、校閲がどれほど注意を払っても少なからず見落としはあり、重版の度に洗練されていく。
クルマやオートバイに乗り、旅を好む者にとっても、文庫本化の意味は大きい。お気に入りの一冊をグローブボックスやタンクバッグに放り入れ、向かった先の海辺で、立ち寄ったカフェで、眠る前のベッドの上で、別世界へトリップすることができる。その時間は、このうえなく自由なひと時に感じられるはずだ。携帯性なら断然文庫本に分があり、カバーを外して持ち出すくらいのラフな扱いがふさわしい。旅先の空気を含み、少々ヤレ、シワになった文庫本に、再びカバーを掛けて本棚へ戻す。一人と一台と一冊の物語が、そこでひとつの区切りを迎える。
文庫本はしかし、本としての最後の形でもある。時代を超え、版元を変え、文体や解釈を新たにしながら生き長らえる文学作品もあるが、そのほとんどが、どこかの本棚に収まった時点で役割を終える。古本ショップやオークションを通じて誰かの手に渡ることがあっても、全体の総数から見れば奇跡に近い。新しい号に取って代わられる雑誌のような切り替わりがなく、そのほとんどが、そっと世の中から消えていく。文庫本はだから、どことなく儚く、物悲しさを漂わせている。
河野さんの後ろで、かなりのスペースを占めている本がある。あの頃、エンジンに魅せられた者なら誰もが貪るように読んだ、赤い背表紙の文庫本。片岡義男によって生み出された、膨大な数の小説群だ。所有する冊数のごく一部に過ぎず、中にはページが完全に抜け落ち、カバーだけの状態になったものまである。だけど、それを手放したりはしない。カバーこそがその世界への扉であり、擦り切れ、色褪せ、ページを失ってなお、守る価値があるからだ。たとえカバーだけだとしても、触れて、見て、香る官能性がそこには残されている。
これらの小説は、かなり前からすでに絶版だ。重版が数十回も繰り返されたロングセラーもあるが、初版は80年代、古くは70年代に遡るのだから、それも致し方ない。したがって、河野さんの手元にある小説の多くは、おそらくここが辿り着いた先となり、本としての旅を終えることになる。電子書籍化も徐々に進んでいるとはいえ、新たな読者によってページがめくられる機会がないのだとしたら、それは少し寂しい。
しかし、いつか誰かが同じようにここで「あ、そうそう。僕がこの作品を手にしたのは……」と河野さんの話に耳を傾ける日がある。その時、机に積み重ねられた片岡義男の赤い背表紙を通して、その人にとっての新しい旅が始まる。
河野 仁/Hitoshi Kono
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伊丹孝裕