第三京浜物語 archives

国道466号、第三京浜道路。

東京と横浜を結ぶ片側3車線のこの自動車専用道路は、ワインディングでもなければ、景色を眺めるための道でもない。

しかし、クルマやバイクで走る人を惹き付ける何かがある場所なのである。

全長は、16.6キロ、時間にしてわずか15分程度で駆け抜けてしまう「第三京浜」の魅力を今月は、探ってみたい。

2012年8月号 Vol.117 特集「第三京浜物語」より “サンビャク”を出したと誰かが言った~保土ヶ谷パーキングの熱い夜

文・まるも亜希子 写真・長谷川徹

 16.6㎞を最速で駆け抜けるのは、どこの誰のバイクなのか、そのバイクは、どんな改造をほどこしているのか。毎週土曜日の夜、ライダーたちのプライドを賭けた闘いが、深夜の第三京浜で繰り広げられた。その行方を目撃しようと保土ヶ谷パーキングに集まりはじめたギャラリーは、全盛期で数百人にものぼったという。80年代後半から90年代前半にかけての話である。

 いったいあれは、何から始まったのだろうか。バイクブームの延長線にあったものなのか、アナログ時代の功績なのか、それとも単にバブルの成せる技だったのか。その真相を確かめるために会いにいったのは、株式会社「イエローコーン」の代表取締役、杉田 均氏だった。アパレルメーカーとして今年で、創業25周年(当時)を迎えるイエローコーンは、モータースポーツシーンでも二輪の全日本選手権をZX-9Rで戦い、四輪のJGTCには、マクラーレンF1GTRで参戦していたのでご存知の方も多いだろう。

 若い頃からアパレル業界で働いていた杉田氏は、当時から時折フラっと、カワサキの〝Z〟で第三京浜へ走りに行っていたという。

 しかしそこを走る杉田氏のバイクは、素人とは思えない本気のチューニングパーツに彩られていた。

 「まだレースでしか使われていなかったパーツを早くから付けて走ってましたね。’81年にはダイマグ、’82年にはロッキードのキャリパーを入れてましたから。それで第三京浜に走りに行くと、見るヤツが見れば分かるので保土ヶ谷PAで話し掛けられたりして。こっちも見せびらかしたいってのがあって、よく通っていました。そこからだんだん口コミで第三京浜にバイクが集まり始めたんですよ。そこで話すことといったら、何速で何回転まで回ったとか何キロ出したかって、そればっかり」。

 80年代に入り、スズキの1100カタナやホンダのCB1100Rといったモンスターマシンが次々に登場してくる中、杉田氏は70年代に設計されたZ1-Rでそれらに勝つことに燃えた。エンジンチューニングを自ら行い、第三京浜で片っ端から挑戦者を叩きのめしていったのだ。

 その一方で杉田氏は、’83年ころから鈴鹿8耐用にチームTシャツやジャケットを作ってくれないか、とのオファーを受けはじめる。杉田氏の才能は本業のアパレルでも開花しはじめ、ついに’87年11月、アパレルブランド「イエローコーン」が誕生。そして杉田氏は一気に攻めに出る。

 「自分のZ1-Rが最速だという確信はありました。それを最も効果的な方法で見せれば宣伝になる。あとは、勝手に広がるはずだと考えたんです。そこで僕は、第三京浜をステージにしました。’88年の春からバイク雑誌と組んで、保土ヶ谷パーキングに何台ものモンスターマシンを毎週土曜の深夜に、集め続けたんです」。

 イエローコーン=「危険な戦士」の伝説は全国に広まり、著名なカスタムショップがデモカーを持ち込んでくるまでになる。しかしイエローに彩られたカスタムバイクは、ぶっちぎりの強さでギャラリーを魅了し続けた。いつしかギャラリーの三分の一近くがイエローコーンのジャケットを身に纏っていたというから、まさに伝説のブランドになったのだ。

 ジャケットには創業当初から、「HIGHWAY THE 3RD」(第三京浜の意)の文字が変わらずに刻まれている。第三京浜とは、自分にとって、なくてはならなかったものであり、イエローコーンを育ててくれたものだという杉田氏。鮮やかな黄色いマシンの「第三京浜の伝説」は、これからもライダーたちに語り続けられるのだろう。

「第三京浜物語 archives」の続きは本誌で

第三京浜〜「異界」への入り口 大鶴義丹

第三京浜はオリンピックの年に生まれた
〜第三京浜の歴史を探る 世良耕太

“サンビャク”を出したと誰かが言った
~保土ヶ谷パーキングの熱い夜 まるも亜希子

『サマータイムブルース』を歌いだす道
~音楽の舞台になった第三京浜 山下敦史

第三京浜の向こうは憧れの場所だった
~横浜、横須賀、そして湘南へ続く道 嶋田智之


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