立ち止まって考える 2021

写真・長谷川徹(MAZDA6)/渕本智信(X-ADV)/神谷朋公(KAWASAKI Z)

少し前までは憧れの存在だったモノや、少し前までは当たり前だったコトがいつの間にか変わっていく。

特にクルマやバイクを取り巻く価値観の変化は著しい。それを世代や時代のせいにしてしまうのは簡単だが、自分たちの思考も変化させる必要があるのかもしれない。こういうご時世だからこそ少し立ち止まって考えてみたい。


旧車の高騰について

文・伊丹孝裕 写真・神谷朋公

車両協力・吉野秀美

 4輪の世界では、マイルドハイブリッド、ハイブリッド、プラグインハイブリッド、バッテリーEV、そして水素燃料電池といった具合に、純粋な内燃機関の代替えパワーユニットが徐々に浸透してきた。ユーザーはそのメリットやデメリットを知り、受け入れる時間があったわけだが、2輪界にはそのプロセスがほとんどない。それゆえ、ガソリンを燃やし、そのサウンドやバイブレーションを身体全体で味わう楽しみが唐突に奪われるのではないか。そんな不安を抱えているライダーは多い。

 電動バイクそのものは、雨後のタケノコのように日々登場しているものの、大半は新興メーカーだ。内燃機関を下地に持つ日本の4メーカーや欧米のメジャーメーカーが手掛けた実用的なモデルはごく一部に過ぎず、インフラも含めて過渡期にさえ至っていない。

 にもかかわらず、「東京都内では2035年までに純ガソリンエンジン車の販売をゼロにする」、「2050年までにバイクの90%を電動化」といった発表が続々と聞こえてくるようになった。カーボンニュートラルがなにかはよく分からないものの、どうやら世の中はそういった流れになっているらしい。そういう漠然とした置き去り感の中にライダーはいる。

 現在、旧車が流行っている要因のひとつがそこにある。バイクを取り巻く状況は明るいとは言えず、だったらすべてが明け透けだったあの頃のバイクの方が無邪気に楽しめるに違いない。ならば、今のうちに手に入れておこう、と考えるのはごく自然なことだと思う。

 Z1の50周年を来年に控えるカワサキがパーツの一部を再生産し、ホンダもNSR250RやVFR750Rの廃盤パーツを復刻させた。こうしたメーカー主導の動きもさることながら、その維持をサポートしてくれる専門ショップも数多く存在する。ノウハウやパーツへの対価はそれなりに要するものの、時間を止めることを望むなら、そこにしがみついていられる環境が整っているのだ。無理に新しい世界を知る必要はない。

 最近、大手オークションサイトに1億3,000万円のホンダCB400フォアが出品され、話題になった。それを数十年分の時を巻き戻せるタイムマシンと考えるなら、その価値観に他人は口を挟めない。

 もっとも、「今のうちに」という思いは旧車の世界に限らない。SR400の最後を飾るリミテッドエディションが異常な価格に高騰したり、BMWが1,801㏄の空冷2気筒エンジンを送り出したり、ハヤブサの開発エンジニアが公式PVの中で「50万㎞でも乗ってほしい」と語ったことは、それが顕在化した例だ。そこには、混じりっ気のない内燃機関の集大成を満喫したい、して欲しいという思いが充満している。

 また、欧州には2ストロークエンジンに積極的なメーカーがいくつも存在し、トライアンフはモトクロスやエンデューロの世界に新しく参入することを宣言した。環境規制がさらに厳しさを増し、ガソリンを存分に燃焼させられる場が公道からクローズドコースへ移行したとしても、シェアを維持拡大していこうとする将来への一手が読み取れる。

 Zとともに過去に留まるか、ハヤブサで今を感じるか、電動という未来に夢を見るか。そのどれかを選ぶことも、すべてを選ぶこともできるのだから、2輪の世界は案外可能性に満ちている。あまり悲観することなく、自由に行き来した方がきっと楽しく、健康的だ。


現在の日本では、スポーツカーに乗っているとイタく見られる

文・小沢コージ

 「現在の日本では、スポーツカーに乗っているとイタく見られる」。

 感覚的な話だがまさにその通り。かつて昭和から平成の初めにかけて、いいクルマに乗る行為はみんなの憧れだった。特に男性だが、まるでアイドルか女優を彼女や妻にしたかのような賞賛が得られたもの。フェアレディZでもスカイラインGT-Rでもいいし、ポルシェやフェラーリのようなスーパーブランドならなおのこといい。持つだけでヒーロー! 乗るだけでいいね!! 今から考えればお笑いぐさだがお金と免許があり、いいクルマを買うだけで自分の価値を高められた時代があった。

 ところが今は逆だ、特にこの日本では。日産GT-Rやトヨタ・スープラはもちろん、フェラーリですら持っていてもほぼ賞賛されない。初対面で「持ってるクルマなに?」「フェラーリのモデナだよ」と言われれば「凄いね」「余裕あるねぇ」と答えちゃうかもしれない。

 だが、街中でフォン! と大きな排気音をたてて走る平べったいフェラーリやランボルギーニに ♪ひゅー、カッコいいじゃん! と思わず感じる人はほぼいないだろう。そう思うのはスーパーカー世代以上のクルマ好きぐらいで、特に30代以下の世代は見向きもしないどころか興味すら持ってない。ここには不思議なくらいの感覚の欠如があり、今や「いいクルマに対する認識」であり「お金持ちに対する感覚」が完全に変わったとも言える。

 かつてスーパーカーは俳優やある種特権階級の人間が乗る存在だった。古くは石原裕次郎のメルセデス・ベンツ300SL、高倉 健のポルシェ356、クルマ自体が貴重だったし、特にスーパースポーツは維持も含めて、単純にお金だけでは手に入れられないシロモノだった。スーパーカーを持ってる人=凄い人だったのだ。

 ところが今ではスーパーカーの所有になんのテクニックやコネもいらない。お金さえあれば誰にでも買えて、運転や維持も可能。またお金持ちの概念も変わった。今も変わらず政治家や土地持ちも多いが、IT長者もYouTube長者もいる。そこにはお金持ち=特権階級という認識だけでなく、単に「ラッキーな人」という認識すらあったりする。

 なによりも大きな壁は、クルマを楽しむという行為が本質的には理性的ではなく、感性的なものだからだろう。クルマには生活の道具やステイタスシンボルとしての側面もあるが、本質的には酒や煙草同様の嗜好品であり、麻薬的なものだ。運転という身体拡張行為で興奮し、エキゾーストノートを聞き高揚する。それはある種セクシャルであり中毒的なのだ。しかもスポーティでハデで上質なクルマほど運転はキモチいい。葉巻でいえばキューバ産コイーバであり、ワインで言えば5大シャトーの逸品が旨くておいしいようなものだ。

 で、今やワインはともかく煙草の快楽から逃れられない人が時折イタく見えやしないだろうか。かつてジェームズ・ボンドが葉巻をくわえ、クリント・イーストウッドが紙巻きを燻らせる姿はとてもカッコよかったが、今時電車から飛行機から降りる度に喫煙所にかけこむ人はアナタにはどう見えるだろう。過去の快楽行為から抜け出せない少々イタい人に見えないだろうか。私にはスーパーカーに狂っている人も同様に見られている気がする。

 かつての価値観に囚われ、未だ大枚を叩いている哀れな人々。だからイタく見えるのである。ただし、これは国によっては見え方が変わるので要注意。今でも中国やインドではクルマはステイタスであり、欧州ではモータースポーツが日本より愛されている。日本は世界でもトップのクルマ生産国なのに、ある種終わった煙草や嗜好品のような扱いを実質的に受けている。これはこれで非常に悲しむべき問題ではあるのだ。


「立ち止まって考える 2021」の続きは本誌で

ステーションワゴンに愛はあるのか 今井優杏

X-ADVという存在 近田 茂

旧車の高騰について 伊丹孝裕

現在の日本では、スポーツカーに乗っていると
イタく見られる 
小沢コージ


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