アコースティック プレジャー

文・嶋田智之 写真・長谷川徹

電子制御された過給器やハイブリッド、それに安全のための電子デバイスは、
時代が求めた必然であり、未来を豊かにする可能性があることは理解できる。
しかしそれだけでは、クルマやバイクの持つ本来の魅力がなおざりにされてしまう気がする。
何もかもをデジタル化するより、アナログな味わいを残して生かす方が人の気持ちには響くはず。
音響を表す言葉の「アコースティック」とは、
電気的な機器や装置を使わない楽器そのものが持つ本来の生音のことをいう。
デジタルの反意語はアナログだが、ahead は、それを「アコースティック」と呼びたい。


アコースティックなクルマの真髄は
NA[自然吸気]にある

とあるF1チームをめぐる、ちょっとしたお伽話を。誰もが知ってる真っ赤なF1チームに出入りしてた人物が語っていたお話だ。時は自然吸気の12 気筒エンジン華やかなりし頃、ある年のそのコンストラクターのエンジン部門では、シーズン直前に新しいパーツを組み込んだことでエンジンのパワーが10馬力アップしたのだという。レーシングカーと較べれば全てにわたって鈍い市販車で普通に走る場合、実は10馬力なんて目覚ましい影響を受けるものではない。けれど、あらゆる箇所を妥協なしに研ぎ澄ませた先鋭性の塊であるF1マシンにとっては、それは天と地ほど大きく結果を分かつ数字だ。なのにその部門の責任者は、頭を抱えながらこう言い放ち、ヴァージョンアップ前のエンジンを開幕戦から投入することに決めたのだと言う。

「ダメだ。音が汚い。このエンジンはウチの〝サウンド〞になってない」

おそらくその人物は「だからあの時代にあのチームは勝てなかったんだよ」という意味で語ったのだと思う。でも、僕は「だからあそこのエンジンは、聞いてるだけで涙が出そうになるような音を奏でるのか」というふうに受け取っていた。

だから何だと思われるかも知れないが、僕は今回の〝アコースティック・プレジャー〞というキーワードを耳にしたとき、瞬間的に、この話を思い出したのだった。

本当にあった出来事なのかどうかそれは判らない。罪のないジョークなのかも知れない。ただ、時代を考えるとあり得ない話でもないな、と感じたのも確かだ。そのコンストラクターの市販車部門がサウンドのチューニングに並々ならぬこだわりを持っていることは、誰もが知っている。真実であってもおかしくない。だから僕は、真偽はともかく、喜びを込めて〝お伽話〞と言う。

そして、このお伽話には、確かな真実がふたつ隠れている。

ひとつは、この世にはただそれだけで人を感動させるエンジンサウンドというものがあり、それは大抵の場合は自然に生まれた〝結果〞ではなく、人の手によって入念に作り出されたものである、ということ。

それともうひとつは、モノゴトには常に別の見方というものがあって、どれかひとつだけが必ずしも正解であるわけではない、ということだ。

例えばここ数年で一気に増殖した、小排気量の直噴ガソリンエンジン+過給器という構成を持つ、いわゆるダウンサイジング系ユニット。ひと昔前だったらその1・5倍程度の排気量を持つエンジンが絞り出していたパワーとトルクをやすやすとモノにして、燃費の数値も驚くほどに良好、CO2排出量の面でも極めて優秀で、過給器が働いているのかいないのか判らないくらいフィーリングも自然、加速性能も巡航性能も充分以上に満足できるものだ。けれどほとんどのメーカーのそれは、どれも似たような感じで個性が薄いし、刺激には乏しく、そこには官能的と呼べる類のモノはほとんど皆無である。

例えば多くのハイブリッドカーも然り。燃費など、ひと昔前のクルマから考えたらまるで夢のようだし、チカラ強さだって、モーター+バッテリーに組み合わせられてるガソリンエンジンの排気量などを考えれば、申し分ないレベルにある。だが、はじめのうちこそ未来の乗り物のような感覚で走らせるのが楽しかったけれど、慣れてしまえば、もうどうってこともなくなって、むしろガソリンエンジンが担ってるパートの方の退屈さを残念に感じたりもする。
アコースティック プレジャー

でも仕方ない。当然といえば当然だ。それらはあくまでも燃費性能や環境性能を第一義として成果を追い求めてきた結果であり、むしろ成し遂げていることを称賛するべき。もちろん僕にしてもその気持ちは存分にあるのだけど、反面、それでも何だかスカッとはしない。

そういう意味では、それらのいわゆるデバイス=増幅装置を持たない自然吸気エンジンのほうが、間違いなくスカッと爽快だ。

余分な何かが間に1枚挟まったような違和感じみたもののないシンプルなフィーリング。過不足のないストレートなレスポンス。真っ直ぐなサウンド。ダイレクトに伝わってくるエンジンキャラクター。要は全てにおいて素直でナチュラルなのである。過給器付きのものと交互に乗り較べてみるとよく解るのだけど、そうした明快さがそのまま気持ちよさに繋がっているのだ。まさしく〝アコースティック〞。僕達、(人間と言い換えてもいい)は、気持ちのイイもの、気持ちのイイことが好きな生き物であり、そしてそれはできる限り〝生〞で伝わってくるのが望ましい。その事実を考えれば、自然吸気エンジンがもっと盛り上がってもいいんじゃないかと思う。

例えばスバルBRZのフラット4、ルノー・ウインドの直4、プジョー208の3気筒、マツダ・アクセラ・スポーツのスカイアクティブ2リッター、フィアット500の1・2リッター、日産フェアレディZのV6などなど、それぞれ性格もベクトルも異なっているけれど、いい線いってる自然吸気エンジンはいくつかある。ただ、まだまだ伸びしろはあるんじゃないかとも感じている。

何せ技術は山ほどあるのだ。時代の変遷とともに求められるものもガラガラと変わり、それでもキッチリと対応して結果を出してきた優秀な技術者達が、世界中の自動車業界にはたくさん存在している。そうした素晴らしい技術力を、今よりもっと〝気持ちイイ〞に割り振って開発を進めれば、それこそ走り出したら降りたくなくなるようなクルマが必ず生まれてくるはずだ。そして、もしかしたらそれは、自動車という存在の中に新しい価値を創造することになるのかも知れない。

ECOの追求を否定する気なんて毛頭ないけれど、それ一辺倒の今の風潮にいずれ飽きが来るのは目に見えている。それが人間という生き物なのだから。かくいう僕も、実のところちょっと食傷気味だったりする。極めて優秀だけどどこか味気ない原動機を積んだクルマで小利口に過ごすよりも、多少どこか劣る部分があろうといつだってストレートに生の刺激を与え続けてくれるエンジンを日々唄わせて、ニヤニヤ笑いながら暮らしたいと思ってる。どうしようもないクルマ好きの性として。

僕には「音が汚い」と10馬力アップの成果を捨てたエンジニアを愚かだと笑うなんて、とてもできない。あなたはどうだろう。

文・嶋田智之 写真・長谷川徹


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