苦悩の末の栄冠 平手晃平2016年SUPER GT500を制す

10歳で初めてカートに乗って以来、平手晃平は20年に渡ってレースの世界で戦ってきた。戦う相手はコース上のライバルだけではない。

 際限なく膨れ上がる資金を工面し、限られた条件の中で速さを見せつけ、上位カテゴリーへステップアップするための体制を引き寄せる。戦いとはレーシングドライバーであり続けるために必要なすべてのことを指すが、平手の中にある底知れない才能がそれを可能にしてきた。

 事実、ごく一般的な家庭で生まれ育ったため、とりわけカート時代の参戦費用は苦難の連続だったが、’02年に史上最年少の16歳でフォーミュラドライバーの座を勝ち獲ると、トヨタの育成枠に乗って翌年渡欧。そこでも常に結果を出し続け、フォーミュラ・ルノーからF3へ、そしてついにはF1直下のカテゴリーであるGP2のシートをも掴んでみせたのだ。
 刻々と変化する時勢の中、’08年には帰国を余儀なくされたものの、次の戦いの場になったフォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)とスーパーGTにもすぐに適応。チャンスを少しずつ手繰り寄せると’13年にはついにGT500のタイトルを獲得し、名実ともに日本のトップドライバーへと登りつめたのである。

 この時、平手は27歳。発展途上のさなかと言ってもよく、速さと経験がバランスするのはまだしばらく先のこと。その過程で立った頂点だからこそ、翌シーズンはさらに成長した姿が見られるに違いないと誰もが楽観視していた。所属していたチーム「セルモ」とも契約を更新し、ペアを組むドライバーもトヨタの絶対的なエース、立川祐路のまま。つまり不確定要素はなにもなく、平手はそれまで同様、自分らしい走りに徹すればよかったからだ。
 ところが、そこから本当の苦難が始まったのである。ディフェンディングチャンピオンとして迎えた’14年のシーズン序盤、第1戦と第3戦はノーポイントに終わった一方で、第2戦は2位、第4戦では優勝を果たすなど、調子がいいのか悪いのか、解決すべき問題が有るのか無いのかが明確にならないままシーズンは進んでいってしまった。

 そして、その過程で平手はいくつかミスを犯す。第6戦と第7戦の2戦連続で引き起こした他車との接触がそれで、タイトル防衛の可能性を自らの手で潰していく現実に耐えかねた平手は、感情のたかぶりを抑えることができなくなっていた。それがチームや他のドライバーに対する不用意な発言を招き、自身のSNSやブログでもいらだちを隠そうとしなかったのだ。

 平手はすぐに過ちを悔い、反省の気持ちを態度と言葉で示したが、一度下がったチームの士気を取り戻すにはあまりにも時間がなかった。結果的に最終戦は7位に留まり、ランキングも8位に陥落。3年連続で記録していたレクサス勢のトップという地位からも大きく後退し、チームを去ることになったのである。

 GT500の王座を獲得し、幸せの絶頂にいたそのわずか1年後にシートを喪失するという浮き沈みの中、平手が抱えていたストレスは次第に大きくなり、それはやがて家族にまで波及していった。

 レースを続けられるかどうか。そんな瀬戸際はカート時代に幾度となく経験してきたが、4輪レースに転向してからは「ここぞ」というタイミングで必ず求められる結果を出し、着実にステップアップを果たしてきた。そのため、契約に関して深刻な状態に陥ったことはなく、ましてシートを失うことなど考えたこともなかった。

 ’14年のシーズンオフではそれが一転。順風満帆と言ってもいいそれまでのレース人生とはあまりにかけ離れた状況に陥り、平手に大きな失望と挫折感をもたらした。やすらぎの場として新居を購入し、第二子となる長男が誕生したばかりだったことも生活への不安を煽ったことだろう。

 それは妻である淑美にとっても同じだった。ドライバーとして現役でいられる期間は決して長くはないため、将来のことはいつも頭の片隅にあったが、それでもこんなに早く身につまされるとは思ってもみなかった。

 走る環境さえあれば、そのポテンシャルを証明する自信があった平手は、必要ならば新居もクルマも手放していいとすら思い、すべての環境をリセットすることも厭わなかったが、GT500ともなればその規模はあまりに大きく、メーカー、チーム、スポンサーすべての思惑がそこに絡むため、速さや覚悟だけではどうにもならない壁があるのも確かだ。それをよく知る平手だからこそ様々なことを考えあぐねていた一方で淑美は上手く立ち回ることのできない夫の不器用さを歯がゆい思いで見ていた。よかれと思って口にした淑美の言葉は、時にプレッシャーとして平手にのしかかり、この頃の家庭にはギスギスとした空気が漂っていたという。

 しかしながら、そんなネガティブな状況を好転させるきっかけになったのもまた、淑美の言葉だった。

 「脇阪(寿一)さんに話を聞いてもらうといいんじゃない?」

 ある日、淑美は平手にそう提案した。脇阪は長きに渡ってレースの最前線で活躍し、スーパーGTとその前身になった全日本GT選手権でチャンピオンに輝くこと3度。ホンダからトヨタに移籍してきた経験を持つ他、トヨタ内でも数々のチームを渡り歩き、常に勝てる環境を模索してきた姿勢はなんらかのヒントになる。そう考えたからだ。

 先輩とはいえ、ライバルでもある脇阪とそれほど親しい間柄ではなかった平手はそれを渋ったが、淑美は「今すぐに電話しなさい」と一喝。その窮状を知った脇阪はよき相談相手となり、沈んだ心を解きほぐしてくれた。続々とシートが埋まる中、平手はただ待つしかなかったが救いの手を差し伸べてくれたチームがあった。それが’09~’10年に所属していた古巣の「サード」である。

2009年「ahead TEAM IMPUL」のドライバーとしてフォーミュラニッポンに参戦して以来、平手晃平はahead関係者との交流を深めてきた。編集スタッフだけではなく、カメラマンやライター、特に二輪関係者から人気がある。皆この3年間の苦労を知っていたので今回のチャンピオン奪還を自分のことのように喜んでいた。大のバイク好き、モトGP好きでホルヘ・ロレンソのファンでもある。

 ‌’14年のレースで露呈した平手の意外な脆さ。無論、それはサードを率いる加藤 眞会長と佐藤勝之社長も知るところではあったが、それを補って余りあるスピードを高く評価し、チーム結成以来の悲願であるタイトル獲得の夢を平手に託すことにしたのだ。その意気込みは一新されたチーム体制にも見て取れ、もうひとりのドライバーにはF1優勝経験を持つヘイキ・コバライネン(フィンランド)を起用した他、エンジニアに田中耕太郎を迎え入れたことがレース通を唸らせた。なぜなら田中はそれまで長くホンダに在籍した人物で、常識にとらわれないマシン作りによって優勝請負人として知られていたからだ。

 平手も当初はそれまで試したことがないような田中のセッティングに驚きつつも、それが速さと乗りやすさを両立していることをタイムで証明。誰もが’15年のシーズンに期待を寄せたのである。

 ところが結果にはすぐ結びつかなかった。ドライバーもマシンもチームスタッフもそれぞれのポテンシャルは間違いなく高い。高いがしかし、それをひとつに束ねてバランスさせるには時間を要したのだ。コバライネンのスプリンターとしての速さには疑いの余地がないものの、平手とのセッティングの違いやタイヤマネージメントの習熟度。それらが影響し合い、その年のランキングは13位に終わった。

 問題の解決を図るため、翌’16年に向けてチームが取った手法はある意味直球だった。コバライネンを平手のレベルに押し上げるため、テスト走行の大半をコバライネンに振り分けたのだ。これによって平手のテスト時間は以前の4分の1程度にまで落ち込み、我慢を強いられたがチーム全体の底上げのためサポートに徹したのである。

 そうやって1戦1戦、ポイントを取りこぼすことなく迎えた最終戦。マシンに搭載されるウェイトハンデがすべて取り払われ、純粋にドライバーのスピード勝負になるその予選において、チームはタイムアタック役に平手を指名した。それはつまり「好きに暴れて速さを証明してこい」という、それまでの貢献に対する最大のねぎらいだった。

 すべての制約から解放された平手は最高のパフォーマンスで快走し、圧倒的なコースレコードでポールポジションを奪取。決勝でもライバルを大きく引き離してコバライネンにマシンを託すと、シーズン初優勝と同時に大逆転でのタイトルをチームにもたらしたのだった。

 2シーズンに渡る低迷の中、平手は傷つき、苦悩した。しかし、速さへの自信を失わずに済んだのは、それを誰よりも知る家族の支えがあったからに他ならない。

 1度目のタイトル獲得は登り続けてきた末の頂点だったが、2度目のそれはどん底から這い上がって手にしたもの。勝ち方も負け方もその身に刻んだ平手は浮かれることなく、すでに先を見据えている。

 来シーズン、RC FからLC500へマシンが一新されるレクサス陣営のカギを握るのは誰か、あるいはどこか。生き残りを懸けた覇権争いはすでに始まっているのだ。

文・伊丹孝裕/写真・LEXUS


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