自動運転という言葉には、大いなる夢を感じる。個人空間で移動の自由を謳歌しながら、電車に乗っているように休めて、なんならスマホでもポケモンGOでもやりたい放題。
もう少し真面目に考えれば、高齢者の生活のサポートになり、交通事故も渋滞も激減。完璧なシステムをすべてのクルマが搭載すれば、道路インフラも変化させられるだろう。中央分離帯など無用だから自動車用を狭くして、その分は歩道や自転車用に振り分けることも可能だ。
ところが、テスラがすでに実用化し、米国での死亡事故が話題になった「オートパイロット」などのことを聞くと、多くの人は「もう夢の自動運転が現実のものになったのか」と勘違いすることになる。これが自動運転という言葉の独り歩きであり、メディアやメーカー側のミスリードだとして問題視されてもいる。
確かにユーザーに過大な期待を抱かせるのは問題だ。だから日産は8月に発表した、新型セレナの「プロパイロット」を自動運転“技術”と表現し、いわゆる自動運転ではないことをアピールしている。実はテスラもユーザーに対してはしつこいぐらいに適正な知識と使い方をレクチャーしていると聞く。それでも誤解は拡がる一方なので、完璧なシステムが出来上がるまでは自動運転と呼ばずに、ちょっと前までよく聞かれた運転支援技術に戻すべきじゃないだろうか? と我々モータージャーナリストの間でも議論がある。
自動運転は定義もまだ固まりきってはいないが、いまのところNHTSA(米国・国家道路交通安全局)の案がベースになり、レベル1~レベル4に分類される。レベル1は、もうすっかりお馴染みになってきた自動ブレーキ、車線からはみ出さないよう支援するLKAS(レーンキープアシスト)、前車追従型クルーズコントロールのACCなど単一のものを指し、これは運転支援技術だ。レベル2はレベル1の組み合わせであり、「プロパイロット」や「オートパイロット」が属する。それ以外でもメルセデスやボルボをはじめ、多くの高級乗用車が採用している。レベル2のなかでも、テスラやメルセデスは高速道路での車線変更まで行う進化型。レベル3はこれがさらに高度になり、ほとんどシステム側が運転するが、対応できない状況ではドライバーに運転を求める。レベル2まではドライバー主体だがレベル3ではシステム主体と逆転するわけだ。責任の所在もレベル2までは完全にドライバーだが、レベル3では自動運転モードのときはシステムにある。そしてレベル4が完全な自動運転で、無人のロボットタクシーも可能なまさに夢の世界となり、責任は完全にシステムだ。ちなみに、そう遠くない将来に“ほぼレベル3”はできそうだが、多くの事故を減らして社会に貢献したとしても、一つでも事故が起きれば袋叩きにあうかもしれない。そこで慎重になるべく“ほぼレベル3”の機能を有していてもドライバー認識装置をつけて、ドライバーが運転不注意状態にあったときには警告を発し、責任をドライバー側に課しておくレベル2に、しばらくはとどめておくということも議論されている。
いま世の中にあるのはすべてレベル2以下であり、ドライバーに責任が課されているのは明白。でも、たとえばプロパイロットでも10㎞/h以下なら連続的にステアリング操作も加減速もシステムが行うから、自動運転の一種ではある。だからこれを自動運転ではないと切って捨てるのも乱暴かもしれない。
結局のところ、自動運転という言葉の独り歩きが問題ではあるが、それを言葉の置き換えだけで解決できるものでもないようだ。根気強く丁寧に正しい理解を広めていくしか、道はないように思える。