おしゃべりなクルマたち Vol.82 アウトエコール綺譚きたん

 娘が自動車学校に通い始めたが、これがタイヘンなことになっている。先月のコラムの終わりにこう書いたが、いやはや、悲惨なことになっている、こちらが正しい。

 もともと運転にまったく興味のない娘だが、クルマがライフラインの欧州で暮らす以上、免許を取得しないわけにはいかない。それで半ば強制的にアウトエコール(自動車学校)に入れた。昨年のお話。

 道交法の筆記は1回、しくじったが、(これも結構、珍しいクチ)、なんとかぎりぎりで通過すると実技が始まった。この時点ですでに入校から半年以上が経過していた。ちんたらちんたら通う様子にやる気のなさを見とったアウトエコールでは「おうちでどんどん運転の練習をして下さいねー」と無免許運転を勧めたそうだ。あまりの長居にうんざりしたのだろう。

 実際、最初の実技を終えて教習車から降りてきた教官の顔は青ざめていた。火事場から逃げ出すみたいに体を折り曲げて車外に転げ出た彼が、迎えに出ていた私を見つけてこう言った。「いやあ、なんとも、メズラシイっていうか、スゴイって申しますか」 この日の評価は20点満点で0点。娘の話では「アタシみたいな生徒、いました?」と尋ねるとキャリア30年の教官は言ったそうだ。「いません」

 彼女の最大の問題はエンストするとか、発進がスムーズでないとか、速度が遅いとか、そういう普通の初心者の次元に到達しないこと。揺らついて直進が出来ず、そのくせ曲がれず、ペダルの踏み加減がまったく理解出来ない。もう、ほんと、お恥ずかしい。

 それでもゆっくり上達をはじめた、というような変化はまったく見られず、規定実技時間20時間のちょうど半分を消化したところでアウトエコールから対策を練りたいと電話が掛かってきた。「ご家族のどなたかと一緒に一度、来ていただけますか」 この世にこういう電話を受けたヒトがいったいどのくらい、いるだろう。

 放校の話ではないか、これが娘の予感。そんな時にダンナが付き添ってはアンタら、教えるプロだろうと怒鳴りまくりそう。私が行けば失神しそう。それで息子に行ってもらうことにした。交渉ごとは彼が得意とするところ。土曜日の午後、ふたりは出掛けて行った。さて、結果はーー。

 免許取得は諦めろ、こういう話は出なかったそうだ。いや、普通のアウトエコールならあり得ますが、とプレッシャーをかけたのち、こう提案したそうだ。「ウチの創設者で今はリタイヤする85歳の、教えることにかけては天才と言われた教官を娘さんの専属として投入する。ついては教習時間を彼のスケジュールに合わせていただきたい」 息子によれば、この時、彼は妹の後頭部を手のひらでギューっと前方に抑えて2人で深々、頭を下げ、言ったそうだ。「よきにお計らい下さい」 愚息よ、よくやった。

 特別教習は来週から始まる予定だ。顔合わせに出掛けた娘の話では頑固そうなおじいちゃん、フランス語で言うところのペペだったが、彼はこう言ったそうだ。「心配するな。免許の取れぬ若者はいない」 ペペの言葉を信じたい。

文・松本 葉

Yo Matsumoto

コラムニスト。鎌倉生まれ鎌倉育ち。『NAVI』(二玄社)の編集者を経て、80年代の終わりに、単身イタリアへ渡る。イタリア在住中に、クルマのデザイナーであるご主人と出会い、現在は南仏で、一男一女の子育てと執筆活動に勤しんでいる。著書:『愛しのティーナ』『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)など。

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