元F1ドライバーのニキ・ラウダ(オーストリア出身)が5月20日に亡くなった。70歳だった。ラウダ死去のニュースは瞬く間に世界に広まった。
東京も例外ではなく、幅広い層が目にする通勤電車のドアの上にあるディスプレイや、商業施設の大型ビジョンでニュース映像が流れた。
ラウダは無遠慮なまでの正直者だった。それが、明らかに白い物でさえ白とははっきり言わないF1界で好かれた理由だったのかもしれない。嘘はつかなかったし、隠し事は嫌いだった。フェラーリでのエピソードがラウダの性格を物語る。1971年にマーチでF1デビューを果たしたラウダは、BRMで走った’73年のモナコGPで一時フェラーリをリードしたことで目を付けられ、’74年にフェラーリのドライバーになる。そこでは皇帝エンツォのご機嫌を取るのが慣わしだったが、初めてフェラーリをテストした際にラウダは、「全然ダメ」と正直に伝えた。
ラウダはただ遠慮がないだけではなく、実力があった。その証拠に翌’75年、フェラーリに11年ぶりのタイトルをもたらした。’76年、ニュルブルクリンク北コースで開催された第10戦ドイツGPの高速コーナーで、ラウダはコントロ-ルを失う。クラッシュしたマシンは炎上。後続のドライバーやマーシャルの勇敢な行動で助け出されたが、クラッシュの衝撃でヘルメットが脱げてしまったこともあり、頭部に大やけどを負う。生死の境をさまよいながらも事故から42日後にレースに復帰したのは、事故後すぐに代役を手配したエンツォに対する反発だった。ラウダは’77年に2度目のワールドチャンピオンになると、当てつけるようにしてフェラーリから出て行った。
’78年、ラウダはブラバムに移籍する(P5で紹介しているゴードン・マレーのBT46Bをドライブし、デビュー戦で優勝)。この年、ラウダは自らの名を冠した航空会社を設立し、実業家として歩み始める。一方、’84年にマクラーレンで3度目のタイトルを獲得し、’85年に現役を引退。’91年にはラウダ航空の旅客機が墜落し、200名を超える乗客乗員を亡くした。ラウダは自身の炎上事故を差し置き、この航空機事故を「人生で一番つらい出来事」と振り返った。
ラウダはF1界でもドライバーとしての経験をベースにビジネスの手腕を発揮し、’00年代初頭にジャガーのチーム代表を務めると、’12年にはメルセデスのノンエグゼクティブチェアマンに就任した。冷酷で非情との評判もあったが、ドライバー時代と同様、裏表がなく正直だったためにそのような評判が立ったのだろう。マクラーレンで育ったルイス・ハミルトンを説得し、’13年にメルセデスに呼び込んだのもラウダだった。「あなたは僕の人生に輝かしい光をもたらしてくれた」と、メルセデスに移ってから4回タイトルを獲得したハミルトンはラウダに言葉を贈った。
’76年の事故でラウダは内臓にもダメージを受けており、腎臓と肺の移植手術を受けて命をつないできた。最後はそれらの臓器が立て続けに音を上げ、息を引き取った。
Kota Sera