「学問はただコツコツと事実関係を積み重ねて行くだけではダメなんですよ。ある時、論理を飛び越える跳躍が必要なんです。学問に真に必要なのは勇気です」
まだ20代前半の私にそんな話をしてくださったのは神学者であり哲学博士でもあった小田垣雅也先生だ。大学時代と卒業後もしばらく先生のゼミに参加させていただていた。先生からは計り知れぬほどの影響を受けたが、亡くなられた今も、折々にその教えを思い出すことがある。前述の言葉もそのひとつだ。
学問(研究)に勇気が必要、なんてずっと理解できないままだったのだが、先日、電車の中でフランス文学者である内田 樹さんのブログを読んでいたら、全く同じフレーズに出会って読み入ってしまった。ブログのタイトルは「論理は跳躍する」で、論理的にものを考えるとはどういうことかについて綴られている。ーー ものごとは論理的にたどって行くと「すらすら」と結論に達するというようなものではない。論理的思考とは、目の前に散乱している断片的な事実をすべて整合的に説明できる一つの仮説を構築することで、その仮説が時に非常識で信じがたい話であっても、それが真実だと推論すること。それこそが論理の跳躍である。ーー 要約するとそういう内容だった。
事実の積み上げはそのジャンプにおける助走であって、あるとき常識の限界を飛び越えることのできる人だけが新しい発見に到達できる。
凡庸な私にそういうことが本当に理解できるとは思わないが、でも多分、論理の跳躍をした偉大な知性が大きな発明をなしとげ、人類の進歩に貢献してきた。レオナルド・ダ・ヴィンチにせよライト兄弟にせよ、大抵の場合、最初は理解されず、むしろバカにされたり、冷遇されたりしてきたのだ。
偉大な知性とは比較するべくもないが、日常生活の中でもそういうことは結構あるんじゃないかと思う。誰かの意見を「そんなことあるわけない」と片付けてみたり、逆に「だってこうでしょ」と初めから一つの結論だけを押し付けてみたり。自分が跳躍できないならともかく、誰かの跳躍を邪魔するようなことも、少なくとも私にはままある。それは将来への可能性を閉ざしてしまう行為であるかもしれず、すぐには理解できずとも「もしかしたらそうかも知れない」と受け入れるところから始めることが大事なのだ。
クルマやバイクの世界でもおそらく論理の跳躍による様々な進歩がなしとげられてきたはずで、私たちがクルマやバイクに惹かれるのは、進歩の向こうにある、関わった人たちの「勇気」に触れるからでもあるだろう。
今、秋に発売されるMAZDA3の「SKYACTIV-X」への世の中の注目の高さや期待の大きさに、これほどまでかと驚かされている。このクルマが多くの人にとって手の届くモデルであることもそうだが、独自の技術で勝負しようとするマツダの心意気にこそ、注目が集まっているのではないか、と思ったりしている。