今年も鈴鹿サーキットで当たり前のようにF1日本グランプリが開催された。鈴鹿では1987年に初開催されており、今年で28回目を数える。
数が合わないと感じるかもしれないが、’07年、’08年は富士スピードウェイで開催されたからだ。
富士スピードウェイは2000年にトヨタ自動車の傘下に入った。’02年にトヨタはF1に参戦。お膝元のサーキットでレースを開催したいと思うのは当然で、その熱意が’07年のF1開催に結びついた格好だ。
そもそも、日本初のF1は’76年に富士で開催されている(’77年まで開催し、以後ブランクが空く)。このとき日本にやってきた「世界最高峰のレベル」に直接触れたドライバーやエンジニア、あるいは観客席で刺激を受けた少年や青年が、その後の日本のレースと世界に羽ばたく意欲を育てたと言っても過言ではない。それほど、エポックメイキングな出来事だった。
富士スピードウェイのオープンは’66年だったため老朽化が目に付くようになり、F1誘致をきっかけに施設を大幅に改修。近代的なサーキットに生まれ変わった。高速の最終コーナーが、タイトコーナーが連続する区間に改められたのもこのときだ。
F1日本GPは’09年に鈴鹿で開催すると、’10年以降は富士と鈴鹿で交互に開催する予定だったが、富士側が降りたため(トヨタも’09年末にF1を撤退)、’10年以降も鈴鹿の秋の風物詩として定着している。
老朽化が目立っていたのは、ホンダによって建設され、’62年にオープンした鈴鹿サーキットも同様で、早急に手を打つ必要性に迫られていた。その意味で’07年~’08年のブランクはありがたく、この間に大規模な改修工事を実施。ピットビルやパドック、観戦エリアが整備され、21世紀のサーキットにふさわしい安全性と快適性を備えるに至った。一方で、アイルトン・セナが愛用したイタリアンレストランはなくなり、レース後にF1ドライバーたちが羽目を外して騒いだカラオケボックスもなくなった。これもまた、歴史だろう。
しかし、歴代のF1ドライバーが愛して止まないチャレンジングなコースレイアウトは健在だ。最新の安全対策が施されたとはいえ、原設計は50年以上前である。最新のサーキットは見栄えはいいけれども多分に人工的で、無味乾燥な印象を受けることもある。だが、鈴鹿は違う。手で線を引っ張って形を決めたクルマと、コンピューターを駆使して構築した現代のクルマの違いと言ったらいいだろうか。人の手の痕跡が感じられるレイアウトであり、だからこそ、攻める側にも思いが響くのだろう。
鈴鹿はF1開催カレンダーのなかでも少なくなった、クラシックなサーキットの代表格である。そこに40年前と同様、世界一流のチームと腕自慢のドライバーがやってきてワザを競う。そんな恵まれた環境を改めて噛みしめてみたい。
Kota Sera