F1ジャーナリスト世良耕太の知られざるF1 Vol.59 二人のホンダ愛

 マクラーレン・ホンダに所属するジェンソン・バトンとフェルナンド・アロンソはともに、「ホンダ」に対する思い入れの強いドライバーだ。

 バトンは’03年から’05年までB・A・Rホンダに所属。’05年末にホンダがB・A・Rを買収したため、’06年から’08年までは所属先の名称がホンダ・レーシングF1チームとなり、ホンダとの結びつきが一層強固になった。

 ’08年末でホンダは撤退したが、バトンはブラウンGPと名を変えたチームに残留。ホンダが泣く泣く手放したシャシーにメルセデス・ベンツ製エンジンを積んだマシンで’09年シーズンを戦い、チャンピオンを獲得した。この点についてバトンは次のように説明している。

 「確かに、ホンダでチャンピオンを獲ることはできなかった。覚えておかなければいけないのは、ホンダは’08年の間に’09年に向けた開発を行っていたということだ。’09年にチャンピオンを獲ることができたのは、ホンダのハードワークのおかげだと思っている。彼らの努力があったからこそ、勝つことができたんだ」

 ただし、それで満足しているわけではない。

 「ホンダとはやり残したことがある」

 そう、バトンは言う。チーム名に「ホンダ」の名前が入ったチームでチャンピオンを獲ることが、バトンのモチベーションにつながっている。

 モチベーションならアロンソも負けていない。’10年から5シーズン在籍したフェラーリとはあと2年契約期間が残っていたのだが、それを解消してマクラーレン・ホンダへの移籍を決めたのだから。

 「フェラーリにいつづけることはできた。でも、3度目のチャンピオンになるには、ホンダしかないと思った。彼らのプロジェクトを知り、施設を見て、技術のレベルを確認した。その結果、ホンダのロゴが入ったTシャツを着たいと思った」

 そう語るアロンソにとって、ホンダの一員になることは「家族の夢だった」という。

 「僕はセナ・プロスト時代に育った。マクラーレン・ホンダがF1を支配していたのを覚えている。3歳の頃、父が僕に用意してくれた最初のゴーカートは、マクラーレン・ホンダのレプリカだった。なぜ、ホンダのカムバックに合わせてマクラーレンに移籍したのかって? それは私の父の夢だったし、家族の夢でもあり、僕自身の夢だったからだ。セナと同じ3回目のチャンピオンになるのに、完璧な巡り合わせだと思う」

 ホンダは「The Power of Dreams」のスローガンを掲げて企業活動を行っている。「夢があるから失敗を恐れず、夢の実現へとチャレンジする」姿勢を表している。アロンソは、自分の生き方がまさにそのとおりだ、と話した。

アロンソと同様にバトンも、強かった頃のマクラーレン・ホンダを覚えており、「僕が子供の頃はマクラーレン・ホンダの時代だった」と振り返る。だから、「マクラーレン・ホンダは特別」で、「その一員になれることに興奮している」とコメント。アロンソは’07年もマクラーレンに在籍したことがある。当時は「いかにもイギリスのチームだったが、いまはインターナショナル」と説明した。「いかにもイギリス」とは閉鎖的で、「インターナショナル」とはオープンでリラックスしていることだと補足した。

Kota Sera

ライター&エディター。レースだけでなく、テクノロジー、マーケティング、旅の視点でF1を観察。技術と開発に携わるエンジニアに着目し、モータースポーツとクルマも俯瞰する。

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