これまでに多くの人がさまざまな言葉を用いてクルマやバイクに関わることを表現してきた。それはクルマの乗り味だったり、バイクがもたらすフィーリングであったり、技術の解説だったりと幅広い。
ときにその言語表現は、読む側の心の奥に入り込み、その人の人生にまで影響を与えることがある。
今回と次回の2回に分けて、クルマやバイクには、「文学」と呼べる要素があるのかを考えていきたい。
先人たちの傍らにいて…
『NAVI』(二玄社)の編集者を経て、その後、単身イタリアへ渡ることとなる松本 葉。’80年代の終わりに日本を離れるまでの間、日本の自動車文化に深く影響を与えたそうそうたる人物たちと関わりを持った。遠くヨーロッパのひとすみで、距離も置き、時間も置いて振り返ったとき、松本 葉の目に先人たちの姿はどう映るのだろうか。
クルマにまつわる原稿を書き始めて今年で30年。多くの仕事をしたわけではない。ごく少量の原稿を、細さを長さで補う紐のごとく書いてきた。
最初に記したのは自動車雑誌の編集部に入ってすぐのこと、1984年。この年に生まれた子供は今、なにをしているだろう。免許は取っただろうか。運転はするのか、クルマは好きか。自動車の記事は読むことがあるのか。生き方も嗜好も様々だろうが、今年30歳になる。これだけは間違いない。同じ時間のなかで、自分はどんな仕事をしたのかと自問する。世の中は変わり、クルマも変わり、私も変わった。多くのことを学んだことに疑いはないが、学んだことを書く作業に反映できたのかと問われれば答えに詰まる。わかったことは何もない。わからぬことは増えるばかりだ。それでもひとつ、確かなことがあるとすれば、クルマについて書くことは難しい、これだけである。
自動車メーカー発行のカタログを除けば、日本で最初にクルマを〝まとめて〟記したのは自動車雑誌、最古のそれは『モーターファン』で創刊は1925年、大正14年!という。国産自動車生産量が一桁だった時代にデビュウしたこの雑誌が、(好むと好まざるとにかかわらず)自動車紹介を中心に据えたのに対して、戦後、創刊されたものはいずれも自動車批評を売りにしている。紹介から批評へ。モータリゼーションの幕開けを感じさせる変化だ。
現在も続く専門誌には’55年発行の『モーターマガジン』と’62年発行の『カーグラフィック(CG)』があるが、後者は作り手の顔がはっきり見えたこと、レースを含めた海外情報を多く取り入れ、またビジュアルに力を入れたことと、厳しい批評を特色とした。
『CG』を創刊したのは小林彰太郎氏。1929年に東京で生まれ、昨年12月に亡くなった。自動車ジャーナリストという肩書きをいくつ、つけても恥じることのまったくない仕事ぶりを生涯、続けた、まさに日本の自動車ジャーナリストの草分けである。
ずいぶん昔のことになるが、小林さん同様、自動車批評の基礎を築いた徳大寺有恒氏、岡崎宏司氏(現在の自動車ジャーナリスト界を背負う岡崎五朗くんの父上)の3人と一緒にイタリア・メーカーに取材に出掛けたことがある。食事の席で広報担当者にこの3人の仕事の特徴をこっそり尋ねられた。「失礼は承知。でも3人の原稿は自分には読めない。原稿を読んだところで翻訳されたものでは特徴はつかめない。だから」、こうせがまれた。
「徳大寺さんはマエストロ、岡崎さんはプロフェッソーレ」。当時、業界で彼らの仕事ぶりからこう呼ばれていたのだ。クルマをグローバルな視点から評する徳大寺さんは巨匠で、緻密に機械としてのクルマを分析する岡崎さんは教授。ここまで言ってしかし、詰まった。小林さんをなんと表していいか、浮かんでこない。すると広報が笑いながら言った。「それならミスター・コバヤシは自動車ジャーナリスト界のインペラトーレでしょう」。ぴったりで思わず吹き出してしまった。ちなみに「キミは」と言った彼がこう続けた。「キミは一般のヒトでしょ」。
自動車雑誌の話であった。いや、この頃の雑誌は専門誌と呼ぶのがふさわしい。海外でデビュウするものを含めた新型車の紹介と解説、自動車製作者へのインタビュウ、レース情報など内容は幅広かったが、中心はなんといっても試乗インプレッションで、編集者は記者である前にテスターだった。彼らが試乗と計測で得た結果を言葉に置き換えて評価した。
当時の自動車専門誌における書く作業の難解さは、言葉を綴る難しさというより数字を言葉に置き換える作業の難しさであり、カタカナの量との闘いであり、専門用語と日常語の境界線を決める作業だったのではないか。ハンドルではなく、ステアリングと記すといった具合に。実際、当時の『CG』を読むと現在のそれとは比較にならないくらい、私には難解である。つまり一般のヒトにはわからぬ表現が多い。逆にいえば一般人にわかってもらおうなど鼻から考えていない。気持ちいいほどに。
創刊当時の『CG』は返本の山で、倉庫から溢れたと聞いたことがあるが、それでも途切れることなく出版は続き、しだいに販売部数を伸ばしていく。あの頃、自動車は道具だったから、どんな道具であるか、その指針が必要だった。だから専門誌が求められたという意見もあるが、私にはあの頃、自動車は機械だったという印象。生活に加わった新しい機械。オトーサンの領域。オカーサンの領域は2槽式洗濯機。そういえばウチの母は『暮らしの手帖』の比較テストを熱心に眺めていたっけ。
自動車という機械を道具にしようと試みたのが当時の自動車専門誌で、しかしその試みは高度成長によって豊かさのかけらを知り始めた世代には窮屈に思われたのかも知れない。ニホンでは機械の自動車は暮らしの道具となる前に別の場所にいってしまった、そんな気がしてならない。
『CG』の創刊から22年後、ハイソカーブームの1984年、同じ出版社から新しい自動車雑誌が創刊される。それが『NAVI』で、この雑誌が私の就職先となった。専門誌が拾い切れないクルマの〝周辺〟を記すことが目的、∧ハードのCG、ソフトのNAVI∨、これがキャッチだった。内容はクルマに少しでも関係あればなんでもよろしい。これが編集方針、たいへん寛大。私のように文章を書くのも小学校以来なら、クルマに関わるのは教習所以外でははじめて、こんな人間を入れることからも寛大さが伺えるが、専門誌の枠組みのキツさを取って、緩く広げるには素人が必要だったのだろう。NAVIに限らずあらゆるメディアで、いやニホン中で素人の時代がスタートする。
時代はクルマに、コートやバッグ、時計、パスタ、レストランと同じポジションを求めた。ライフスタイルのなかのクルマ。そこら中にライフスタイルが転がっていた時代。数年前までこんな言葉、聞いたこともなかったのに。この、ライフスタイルという言葉を、しかし私も原稿に何度しるしたことだろう。ライフスタイルって何なんだと思いながら。
ウィキペディアには誌名は『New Automobile Vocabulary for the Intellectuals』を意味していたと記されているが、実際はナビゲーターのナビに由来する。それでもボキャブラリーという部分はその通りだ。この雑誌の目的のひとつは自動車を表現するボキャブラリーを増やすことだった、今になってこう思う。
12気筒が轟音を奏でる。専門誌が記したこの轟音を、いったいどんな音であるのか、日常レベルに落として表現することが求められた。狼の声と書けば、キミは狼の声を聞いたことがあるのかと問いかけられる。ウオーなのかゴウゴウなのか。轟音に驚いたのか、感激したのか。感激したのなら涙がこぼれたのか、腰が抜けたのか。素晴らしいとスバラシイは異なる。心とココロも違う。もっとも嫌われたのは〝なんか〟と〝どこか〟という表現。なんかへん、どこかおかしい。何がへんでどこがおかしいのか。それから、〝そんな感じ〟ってどんな感じなのだとよく原稿を突き返された。
私が原稿を見てもらったのはいつも、現在、『GQ』を率いる鈴木正文氏。年齢差は十歳だったが、彼が学生時代に読んだ本の量と私のそれには千以上の違いがあったのではないか。吸収力は万の違い。同じように感じたのは連載小説を寄稿した作家の矢作俊彦氏。若い時代に莫大な量の本を読むことは書く作業には欠かせないものだと彼らに教えられた。「本は買うもんじゃない、読むもんなんだよ」、これが矢作さんの口癖。
NAVIもまた創刊から1年ほどは販売不振に苦しんだが、世はバブルの時代、ガイシャの時代、イケイケの時代。雑誌は一人歩きするように販売数を増やした。知名度が高まったことで作家はもちろん建築家、映画監督、ファッションデザイナーから芸能人まで、あらゆるジャンルの人々が誌面に登場する。カルチャー、エンターテイメント、ブランド、マーケティング、トレンド、アート。こんな言葉が誌面で、いやニホン中で踊っていた。カタカナばかりですねって漢字もあった。記号、思想、啓蒙、本物、快楽。いずれもかつての自動車専門誌にはほとんど登場しなかった言葉たち。
この時期はまた、自動車評論家が新しいタイプのクルマ批評を模索した時期でもあった。クラウンで日本的価値観を語り、マークⅡにサラリーマンのヒエラルキーを読み、BMWでなくちゃイヤというOLに幸せの定義を探したのである。『NAVI』のみならず、’80年代終わりから’90年半ば頃までだろうか、自動車雑誌が売れた時代だった。お若い方、こんなこと信じられないでしょう。その自動車雑誌の上り調子に影が見え始めたのはバブル崩壊後だろうか。『NAVI』で言えば私は’90年の段階で雑誌を離れイタリアに移り住んでいたから販売部数の下降経緯は詳しくは知らないが、広告が減ってだんだん薄くなる姿に終わりが見えるようだった。結局、『NAVI』は2010年に廃刊となった。
若者のクルマ離れによって自動車の記事が読まれなくなっている。こんな話をしょっちゅう聞く。イタリアやフランスではどうですかと尋ねられるたび、考えこんでしまう。ヨーロッパでも若者のクルマ好きは減ってはいるが、だからといって無しで生きることは出来ない。ネットの発達によって自動車雑誌の販売部数が落ちていることは確かだが、それでも自動車の記事はやっぱり今でも車種選びの手助けだ。逆にネットの発達によってエンスーの、エンスー度が高まっている、そんな印象。なによりニホンと異なるのは流行はあってもクルマはまず足、記号でもカルチャーでも快楽でもエンターテイメントでもない、必要な道具。道具よ、道具。ここがぶれることはない。
『NAVI』のたどった道を考えるたび、自分を含めて書く側に怠慢はなかったか、こう問わずにはいられない。
いつだったか、徳大寺有恒氏がふざけた調子をつくりながら「あ奴のオヤジの話なんか聞きたくないんだよな」、こう言ってどきっとさせられたことがある。クルマのインプレッションに自分の父親の思い出を書いたライターのことをさした発言で、この時、私たちは徳大寺さんを交えてこのライターの噂話をしていた。
「あ奴がクルマをつかって自分の話を書くなんて百年はやい。クルマを書くには知識と想像力がいるのよ。筆力つけてからにしろって言ってやりたいね」、笑いながらこう言った巨匠の掠れ声がいまも耳に残る。
自動車雑誌の停滞も、クルマの記事の不人気も自動車ジャーナリストに若い層が欠けることも、結局のところ、書く側がクルマをライフスタイルの枠組みのなかに押し込めて自己表現の道具にしたことで、バランスがとれなくなって空中分解した結果ではないか。広く掘っては次に進み、浅く掘ってはまた進み、次から次へと情報と新しいものを求めてネズミのように広く浅く堀り続けた結果ではないか。気持ちいいとカッコイイと、そればかりを言い続けた結果ではないか。反省は尽きることがない。それでもー。
私はそれでも今もクルマが出てくる読み物に出会うと気持ちが弾む。佐野洋子氏のエッセイ『お歯黒ヒルマンと国産車』『オートバイは男の乗り物である』は私のバイブルだ。息子の机に、ニホンのクルマばかりを集めたフランスの自動車雑誌『AUTO WORKS』を見つけると、彼のベッドに腰掛けて読みふけってしまう。
ヒトの話も同様で、「繊維から鉄鋼、軽金属からガラス、樹脂から木材にまで広がる素材、それらを飛行機よりずっと複雑に使い、5年くらい壊れなくて、モニターからモノ入れからエンジンやタイヤ、バッテリーまで積んだ鉄製のカプセルが、家族をのせて時速130㎞で走る。これこそ現代の最先端素材と最先端製作の集大成ですよ」、ヨーロッパの自動車人、内田盾男氏にこんな話を聞けば、誰かに伝えたくなるのである。「ちょっと、ちょっと聞いてよ、クルマって凄いねえ、感心しちゃうよね」
自動車製作に関わる職業のなかで私がもっとも好きなそれはモデラーだが、トリノ時代に知り合ったモデラーに台所の棚を吊ってもらえば、つい言いたくなるのである。「ねえ、知ってる? モデラーってさあ、みんな凄く器用なんだよ」
現在、住むフランスの田舎町で冬の雨の日、交差点でエンコした古いセリカを押す男を見掛けると、このセリカはどこからどんなふうにやって来たのか、想像を巡らす。男は押す自分を呪っているのか、いや、こんなことには慣れているのか。朝、コーヒーを飲みながら夕方、自分が雨に濡れながらセリカを押すことを彼は予感したのだろうか。男はどこに行くつもりだったのか。保育園に子供を迎えに行く途中だったのか、駅で女が待っているのか。陳腐な想像は止まるところを見つけ出せぬまま、ひとり、進んで行く。
自らを語らぬクルマには、クルマ自身に、その周辺に、クルマを作る人々に、人々自身に、すべてに物語があって、ドラマがあって、強く惹き付けられる。だから伝えずにはいられない。書かずにはいられない。紐は細いが、細くても切れずに書いていきたいと懲りずに思う毎日だ。
「クルマやバイクに文学はあるのか」の続きは本誌で