コロナ禍に「三密」を避ける移動手段としてバイク需要が高まり、販売台数が伸びてバイクブームが再来したと言われた。
確かにバイクに興味を持つ呼び水となったのだろう。通勤手段として以上に、その魅力に気がついた方も多いと聞く。彼らを繋ぎ止めることが、バイク業界の急務と言われもした。だが80年代バイクブームからの古参兵としては微妙な気持ちになった。年寄りが自分たちの「縄張り」を主張している訳ではない。バイクから下りていった仲間をたくさん見てきたからだ。バイクに乗り続けるのはそんなに簡単じゃない。そもそも、バイクに乗り続ける確固たる理由自体が、この世には存在していない。
同じくコロナ禍に端を発した空前のキャンプブーム。しかし2024年に入り、ブームの失速があちこちから聞かれるようになった。私はバイクでオフロード遊びをするために、山に入り車中泊などをするので、キャンプが何たるかを少しは知っている。このブームの終焉は当たり前である。キャンプの参入は少しのお小遣いがあれば千客万来だ。特別なテクニックも要らないし、命の危険もない。老若男女、等しく楽しめる。しかしその前半部分は楽しいが、翌日は撤収作業が待っている。道具を展開するのは簡単だが、収納するのは清掃も含めて倍以上の仕事になる。雨が降ったりすると、帰宅した後も、テントや寝袋の乾燥、キャンプギアのメンテも必要になる。とくに家族単位でのキャンプは、人数分だけ作業が膨らむ。コロナ禍の精神的な混乱も過ぎ去り普通の生活に戻りつつある昨今、よほど「開眼」しなければ、それを継続するのは難しい。
大手キャンプメーカーの国内利益が前期比99.9%減などという話もある。この極端な数字の変化に、日本らしさを感じた方も多いだろう。以前からキャンプを趣味にしている人たちからするとブームの終焉は大歓迎らしく、迷惑キャンパーが減り、中古のギアもオークションに安く出回り、キャンプ場の予約も取りやすくなったと小躍りしているらしい。
しかしバイクはキャンプより参入障壁が高いこともあり、このような極端な終焉はないはずだ。だがバイクを維持するということは、キャンプギアを維持し続ける以上に手間も費用もかかるのも事実。参入障壁を超えた強い意志であろうとも、ある時期を境に変化していくのは避けられない。
そもそも論になってしまうが、私たち世代がバイクに乗り始めた理由とは、時代的な「洗脳」もあるが、漫画やアニメ、特撮ヒーローものと、当時の男児用エンタメコンテンツにはバイクが必ず登場していた影響が大きい。99%の男の子はバイクという存在に憧れを持つように導かれていたといっても過言ではない。だから16歳になったら多くの男の子はバイクに乗り始め、それを見て続く者も多かった。バイクに乗ることは通過儀礼のようなものだったのだろう。バイクの販売台数も今とはケタが違った。コロナ禍にゆるく発生した、バイクブームとはそもそも濃度が違う。だがそれでも大半はバイクを下りていった。
昭和臭い独り言ではあるが、バイクという趣味は週末の草野球やありふれたシーズンスポ―ツとは大きく違う。良くも悪くも思想じみたものがある。バイクの種類や乗り方でジャンルは分派するが、多くのバイク乗りはバイクとの関係に特別な意味を感じている。明文化されてはいないが「教義」のような共通意識を持っていることが多い。だから離れていった仲間に対してもひとしおの寂しさを感じてしまうのだ。
その気持ちを何度も経験している世代としては、バイクブームなどと言われても、どうせすぐに下りると脊髄反射してしまう。バイクに乗り続けるのは簡単じゃないと、余計なことを言ってしまうかもしれない。だがその反面、新しい世代が彼らなりにバイクを愛でている光景に触れると、とても暖かい気持ちになることも確かだ。若い世代がバイク談義をしていると思わず混じりたくなってしまうときもある。しかし昔話をしたくとも、今の時代は御法度だ。彼らの新しい生態系を乱してはいけない。私たちだってあの頃、オッサンのバイク乗りから口を出されても相手にもしなかった。
とあるメディアで、バイクブームについて質問されたことがある。「バイクなんて乗らない方が良い」と答えた。以前、自分の娘がバイクに乗りたいと言い始めたときも反対した。ただ、どんな反対を押し切ってでも乗る奴は乗る。バイクなんて、結局、そんなものだと思っている。
Gitan Ohtsuru