テスラを買う気分
この20年でクルマは何が変わったのか
文・小沢コージ
この20年でクルマの何が変わったのかって簡単だ。技術的に言うと安全性能のデバイスが普及したことだ。ここ10年で言うと先進安全機能に関わるデバイスだろう。21世紀に入り、ABS、エアバッグ、横滑り防止装置の装着はすっかり当たり前になり、2010年あたりからいわゆる「自動ブレーキ」とも言われる衝突被害軽減ブレーキやレーン逸脱警報やレーンキープアシスト系が標準化されてきた。しかし導入のきっかけは情けないことに外圧である。そもそも日本の警察はいわゆるアクセル、ブレーキ、ステアリングの重要保安部品に人の操作以外のものが介入することを極力さけてきた。しかし今になって証明されているが、一部の反応は人より機械の方が早くて正確なのである。この20年の先進安全技術によって確実にクルマは安全になった。今では100万円ちょっとの軽自動車でも当たり前のように被害軽減ブレーキとレーンキープアシストは備わってきている。
これは表向きはいいことだ。だが、クルマが安全になればなるほど、全方位でスキのない商品になるほど、僕らのクルマに対する愛着が薄れてきている気がする…。“気がする”と書いたのは基本的には個人の感想レベルだからである。根拠はさほどない。正直、僕はクルマに乗りたいという熱が醒めてきている。免許を取得した頃は、イイクルマを見るたびに「そのクラッチだけでも1度繫がせてくれ」と思ったものだ。あの情熱や欲望はどこにいったのだろう。単にオマエが歳を取っただけだろう? と言われればイエスだ。自分もとっくに50代の中盤になり、ある種の乾いたような欲望が消え去っている。あの頃、頑張ればお金持ちになれたような、好きなあの子と一緒になれたような気分はとっくにない。
単純に金がなくて欲しいクルマが買えないというのもあるのかもしれない。だが今3000万円の印税が入ったとしてもフェラーリを買わないだろう。あんなに恥ずかしくて疲れるものを誰が買うのか? と思ってしまう。そう、このあたりから変わってきているのだ。今、モノを買うにせよ、新しい生活を始めるにせよ、新しい仕事をするにせよ、まず気になるのはネガティブ面だ。最近の若い人が結婚に興味がなくなった…というのも分からなくはない。いつの間にか結婚はプラスよりマイナスが目につくようになった。まず子育てはお金がとてつもなく掛かるものとなった。当たり前のように塾に行き、大学に行くようになり、その上今やSNSでがんじがらめである。おそらく今の子供は、学歴で劣れば、そこをきっかけに色々言うヤツが出てくる。今や名の通った企業にMARCH(東京の難関私立大学群)では入れないという。せめて早慶だそうだ。
今の世の中は人にも要求レベルが高い。過ちは直ちに認めなければならない、年収は高くなければならない、人は見た目が8割だとか、未だに勝ち組だとか負け組だとか、本当にうるさい世の中だ。
クルマもそうだ。今のクルマは超頑張っている。しかしそれと同時にデザインは衝突安全を求めるがゆえにピラーを絶対太くできないし、ボンネットも低くできない。そのうちスバルは燃費の悪い水平対向エンジンが作れなくなるだろう。特にYouTubeをやっていて感じるが、今のクルマの価値(勝ち?)基準は画一的だ。モニターが7インチより10.25インチの方が偉くて、12.3インチだとなお偉い。そしてパワー源の電動化が進めば進むほど偉いとされる。それに流されないでいるのは日本のマツダくらいのものだ。
今の世の中は凄く息苦しい。色々求められる要件ばかりを満たしているうちに、本当にやりたいことがなんだったのか分からなくなっちゃっているようなところがある。そもそも今のフェラーリって本当にカッコいいのだろうか?
正直昔の方が純粋にカッコいいと思うが、かといって懐古趣味に走るのもなんだし、それまた値が張る。今の時代は、行き場がない。クルマを楽しみたくてもゆるく楽しめない。当たり前に求められるものが多すぎて野蛮に楽しむことができない。だったらいっそのこと、出来は不完全でも、スマホみたいなテスラを買っちゃおうか? という気分になってしまうのも分かる気がする。
Koji Ozawa
イメージの詩
この20年でバイクは何が変わったのか
文・山下 剛
産業革命のエネルギーとなった蒸気機関の歴史は19世紀を中心としたおよそ100年だ。それに代わって近代の科学と社会システムを発展させてきた内燃機関も、やはりざっと100年で終わろうとしている。バイクの歴史は内燃機関の歴史とニアイコールだ。そう考えると、この20年でバイクがどう変わったのかという問いの答えは、人間にたとえれば壮年から老年を迎えた高齢者の肉体と精神のようなものである。もはや発展や成長はあまり期待できない。落ちていく体力気力をいかに維持し、熟成させるか。最期まであがき続けるにせよ座して待つにせよ、その準備をする時期だ。
バイク史直近の20年間の変化で顕著な事象は、実用性と趣味性の逆転がほぼ完結したことだろう。駐車違反取締りが改悪され、都市部では通勤や通学、買い物などの移動でバイクを走らせる人が激減した。それに伴ってバイクの用途は週末の日帰りツーリングが大多数となった。その変化をもっともわかりやすく象徴しているのがスーパーカブだ。新聞屋と蕎麦屋の配達のための仕事バイクだったが、いまや老若男女を問わないファンを持つ趣味バイクである。もうひとつは公平性の向上ともいうべき平均化ではないか。スーパースポーツの走行性能が一般公道での使用限界を大きく超えたことで、それまで存在していた排気量やパワーを頂点とするヒエラルキーは崩れた。バイクに乗るからには、速く、巧みに操らなければならない。扱いにくいほどのパワーがあるバイクを乗りこなしてこそライダーであり、バイクは選ばれし者の乗り物だといわんばかりの思想は時代遅れになった。
ヒエラルキーの崩壊は、当然のように公平性をもたらす。運転免許試験に合格できるならば、誰もが乗れて楽しめる。だから旧車の人気と価格が高騰するし、現行車ではZ900RSやGB350、レブル250のような懐古的コンセプトのバイクが圧倒的な支持を得る。公平性の高まりは、弱者を救う。運転技術の未熟さを示すアクセサリーと忌避され、揶揄されてきたエンジンガードは、いまやカスタムパーツの人気アイテムだ。
バイクを走らせるには不便を受け入れる、あるいはそれを楽しみに変える特殊な能力が必要だ。しかし公平性はそれを否定し、利便性と快適性を優先する。バイク便のようで格好悪いと嫌われてきたトップケースを装着する人が増えたし、バイクを買ったらまず取り付けるのはスマホホルダーだ。ツーリング中に仲間と会話するため、ソロであってもナビ音声や音楽を聞くためのインカムもマストアイテムになった。バイク雑誌は売れなくなり、モトブロガーやアイドルのような素人女性のインフルエンサーが台頭しはじめた。公平性は、プロフェッショナルが発信する情報、知識、意見よりも、一般人のクチコミに親近感と共感を求め、信頼をおく。
バイク歴が長くなるほど、たいてい人はバイクを買い替えなくなり、次々と新車に乗り替える人は減っていく。もっとも気に入った1台、ないしは数台を所有して乗り続ける。だから車両メーカーは存続のために無垢の顧客を求め続けなければならない。平均化はその最適解、あるいは選択肢のない方策なのだろう。いや、これは車両メーカーの戦略ではなく、バイク史が壮年期を迎えたことによる自然の摂理というほうが的確かもしれない。それは私たちバイク愛好家も同じだから、この時流に逆らうことはむずかしい。かといって流されるままになるのも釈然としない。バイクとは人々の抗う力を増幅させてくれるものだったはずだ。それがいまや妄想だとしても、そう思いたい。
若き日の吉田拓郎は、古い水夫は新しい海の怖さを知っているから古い船には乗り込まないし動かさないと歌った。そして彼自身が古い水夫となったいま、引退を宣言した。それが賢人なのだろう。しかし私はまだその境地には達せてないし、愚者でかまわない。古いバイク乗りとして新しいバイク乗りに混ざり、古いバイクで新しい道を走り続ける。
Takeshi Yamashita