DEUS BIKE BUILD OFF 2016

1980年代に起きた第2次バイクブームの象徴は『速さ』であり、レーサーレプリカブームによって毎年フルモデルチェンジが行われるような開発競争へとつながった。

 速さは正義であり、メーカーはより高度に進化したスペックを追い求め、ユーザーはそんなバイクをもてはやした。エンジン、シャシー、タイヤ、ブレーキ、ドライブチェーンに至るまで、バイクを構成するパーツの精度や性能は激しく高度化し、洗練されていった。しかしそれが収斂進化という単一化、没個性を招いたのも事実である。

 80年代末に登場したゼファーはそんな正義に疑問符を投げつけた。バイクの醍醐味は速さだけではない。乗り手が剥き出しのまま機械を操る楽しさこそ、バイクのおもしろさの核である。ゼファーが訴えたのはそういうことだ。

 その潮流は現在、モダンクラシックとかヘリテイジと称され、ひとつのカテゴリとして認知された。日本とヨーロッパ、北米の主力メーカーのなかでそのようなモデルを持たないのはアプリリアとKTMくらいで、まったくの新規開発であれ、伝統や名称を継承するモデルであれ、世界中のメーカーが60~80年代のスタイルを持つモデルを生産している。

 しかしゼファーのモチーフはカワサキの名車Z1だ。さらりと街乗りできる気軽さが持ち味ではあるものの、世界最速をめざして達成したスーパーバイクでもある。その正義なくしてZ1が地位と価値を生み出すことはなかったし、だからこそゼファーは生まれ、成功した。「速さは正義」という前時代の価値観を引きずったまま、ヘリテイジというカテゴリは誕生して育ってきたといえる。

 そうした潮流のなか、「文化の融合」を掲げるデウス・エクス・マキナが生み出した価値観は、そこからの脱却に大きく貢献したと思える。『デウス・バイクビルドオフ』というカスタムコンテストに出展されたバイクを見ているとその思いがなおのこと強くなる。

 コンテストの趣旨は「最小限で最大限を表現する」ことで、ベース車両の排気量も生産国も年式もカテゴリも問わない。バイクのかたちをしていて走ることができ、ブレーキがかかること。条件はそれだけだ。70~80年代に生産された車両を中心に、排気量、気筒数もまちまちで、国産も外車もある。発電機のエンジンをベースにした車両もあった。もちろん速さを追求するのも自由だが、レーシングチューンを施した先鋭スポーツ車はなかったし、ギンギラに飾ったニュースクール系や高級パーツを奢ったハイソサエティマシンもなかった。

 モーターサイクルに速さは大切だが、それが第一義ではない。バイクとは肉体だけでなく魂を乗せて走る乗り物、つまりライフスタイルを反映させるためのキャンバスでありモチーフでもある。そういわんばかりの工夫と手間に溢れ、作り手の生き方を表現した車両が集まっていた。バイクが日々の生活に溶け込んでいるからこそ、彼らがカスタムしたバイクは、彼らの人生における夢や理想のひとつをかたちにする行為でもあったし、幸福のかたちとも思えた。

 日本にはバイク文化がないといわれて久しい。しかしそれは速さを正義とするスペック至上主義の中における言説であって、二輪メディアがそこに目を向けていかなかっただけなのかもしれない。視点を他へ向ければその土壌も萌芽もしっかりあるのだ。このイベントに協賛したバイクメーカーはハーレーダビッドソン、BMW、ドゥカティ、トライアンフという海外勢とゼロ・エンジニアリングというハーレー系エンジンを母体とする国産メーカーだった。しかし出展されたバイクは圧倒的に国内4メーカーのものが多かった。しかも名車や定番といわれるバイクよりも、日本のバイク史に埋もれがち、あるいは埋もれてしまっているバイクが多々見られた。このアンバランスさが日本のバイク事情を如実に反映しているようにも思えるし、この混沌こそが新たなバイク文化を生み出す豊潤な土壌にも見えた。

 バイクビルドオフに見られた潮流を「デウスらしさ」ということもできるが、それも乱雑すぎる。出展されたバイクたちはあまりに自由だったし、混沌だった。それにデウスは潮流のひとつにすぎない。名前をつけるにはまだ早いのかもしれない。ひとつ確かなことは、それがこの先のバイク文化の希望であり期待であったことだ。

文/写真・山下 剛


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