引退宣言ができるレーシングドライバーはそういない。人気も含めて実力のあるドライバーに与えられた特権である。
そうでないドライバーの場合は、人知れず消えていく。自分から「やめる」と言って去って行くのではなく、どのチームからも誘われなくなって居場所がなくなるドライバーが大多数だろう。たとえ自分の意思で引退を決意したとしても、それを公の場で口にできるドライバーはそう多くはいない。
その意味で、脇阪寿一は恵まれたドライバーだ。2月4日、TOYOTA GAZOO Racingは2016年のモータースポーツ活動計画を、東京・台場にあるクルマのテーマパーク『メガウェブ』で発表した。’17年から参戦するWRCの準備状況や、ル・マン24時間での初優勝を目指すWECのプログラムに、小林可夢偉がフル参戦するといった発表があった。
各カテゴリーに参戦するドライバーや首脳陣をステージに従え、脇阪は一歩前に出た。そして、こう言ったのである。
「私、脇阪寿一は、SUPER GT500から退く決意をしました」と。
’96年に全日本F3選手権のチャンピオンになった脇阪は、翌’97年に国内最高峰のフォーミュラニッポン(現スーパーフォーミュラ)にステップアップする。さらにその翌年には全日本GT選手権(現SUPER GT)への参戦をスタート。同時に、ジョーダン無限ホンダのテストドライバーを務め、レースの合間を縫ってヨーロッパに渡った。筆者は当時、F1を視野に入れた、というより、F1が手に届くポジションにいることを半ば戸惑いつつも、テストでいい走りを見せるにはどうしたらいいか、思い悩む伸び盛りの青年に現地で会った。
それから10年、’08年に『ahead』の取材で対峙した脇阪寿一は、すっかり成熟したドライバーになっていた。自分が好き勝手できるのは周囲の協力があってこそ、であることを承知しており、そのことに責任を感じていた。ただし、当時の脇阪にとって責任はプレッシャーを意味せず、自分の走りでどれだけ周囲を楽しませられるかを考え、そのことに没頭する自分を楽しめるだけの余裕があった。
されにそれから8年の歳月が経過し、状況が変わった。アスリートであれば誰でも経験する、身体能力の衰えから逃れることはできなかったのだ。走りたいというレーシングドライバーとしての純粋な気持ちや、周囲の期待に応えたいという責任感と、実力の落ちた自分を客観的な目で捉える冷静な思考の狭間で揺れ、葛藤し、もがき苦しんだ。どんなドライバーでも「やめる」と決めるまでに1年や2年はかかるというが、脇阪も例外ではなかったろう。
GT500からの引退宣言につづいて脇阪は「今日から脇阪寿一として第2章のスタートです」と語った。どんな物語をつむいでくれるのか、楽しみに待ちたい。
Kota Sera