おしゃべりなクルマたち Vol.81 “ボブ”とクルマと青春と

 我が家が通う歯医者は伴侶を見つけるために世界中を旅したエピソードの持ち主だが、アマゾンの奥地で出会った奥さんは同じ街の住人で、こんなことならまず家の周りを見渡すべきだったといつも言う。

 息子にも、欲しいものはキミの家の近くをよく探しなさいと助言したそうだが、実際、その通りになった。クルマの話。

 春休みの少し前、息子がとうとう念願のVW ポロを手に入れた。電話をするたびに「もう売れた」と言われ、見るまで漕ぎ着けたモノは程度が悪く、ため息続きだったある日、遠方の業者が出した告知を見つけた。電話をすると、持ち主のもとにあるから今からでも見に行っていいですよと言われたという。場所によりますと答えながら住所を尋ねたら、持ち主はウチの裏の住人だった。

 この瞬間の愚息の様子は忘れられない。電話を肩にはさみ、左足にスニーカーを突っ込み、右足用のスニーカーを手に持ったまま、ケンケンしながら家を飛び出して行った。私が事故に遭ったと知らされてもこれほど慌てて現場に駆けつけてくれることはないだろう。

 老婦人がしばらく乗ったものの、体を壊してからはガレージに置きっ放しになっていたというポロは車体に何箇所か傷はあったが、状態は良好、13年落ちながら走行距離は5万キロで、これまで見たポロの中では最短。室内もとてもきれい。これが息子の説明で、ケンケンから5日後にはポロは彼のものになった。初めて見た時の私の感想は、痘痕もえくぼに見えたのね、というところ。シートベルトが伸びていたし、車体の傷も結構、目立つものだったが、「俺がいいんだからこれでいいんだ」そうだ。

 書類を整えたのは息子だったが、保険額をダンナに告げるときはさすがにうつむき加減だった。盗難、火災を抜いても15万円ほど。私名義のパンダの5倍。若葉マークは高いのだ。親の名義にして保険料を下げる手もあるが、結局、彼の名義にすることにした。責任ってものを知ってもらうため。車両代、保険料を含めた諸経費、シートベルトの修理費を親が払った。盆と正月とクリスマスと誕生日がいっぺんに来た、そう思え。これがダンナの弁。

 息子は毎日、クルマにべったりだ。部品をちょこちょこ交換している様子。ずっといじって、掃除して、運転している。助手席のヘッドレストには、ボブという名の、彼が中学の頃から試験の結果発表がある日にいつも被って登校した馬の頭が載っている。ボブと出掛けては、「ブドウ畑に囲まれたとてもいい道を見つけた」とか「夕暮れの海がきれいだった」などと言う。こんなロマンチックな男だったのかとまったく驚く。

 私には二度と戻ってこない喜びの時をいま、彼は過ごしている。嬉しくてたまらないのだろう。私は心配でたまらないけれど、それでもひとつ、肩の荷が下りた、これは間違いない。ウチで暮らす間は8時の夕食に参加することが我が家の決まりだが、約束の時間に飛び込むみたいに戻ってくると、大きくなったなあとしみじみ思う。さて、次は娘の番。この娘の免許取得がタイヘンなことになっている、という話はまた別の機会に。

文・松本 葉

Yo Matsumoto

コラムニスト。鎌倉生まれ鎌倉育ち。『NAVI』(二玄社)の編集者を経て、80年代の終わりに、単身イタリアへ渡る。イタリア在住中に、クルマのデザイナーであるご主人と出会い、現在は南仏で、一男一女の子育てと執筆活動に勤しんでいる。著書:『愛しのティーナ』『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)など。

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