なぜ私はSUZUKIなのか Vol.3 アメリカとGSX-Rに育てられた

油冷エンジンを搭載して1985年に発売されたGSX-R750は、世界的な大ヒットモデルとなった。改良を続け’90年代からは水冷エンジンに変更。’96年には、ケビン・シュワンツのRGV-γのディメンションを踏襲するなど進化を続けた。写真のGSX-R750は2000年モデルとなる。このモデルをベースにして、GSX-R1000は誕生した。

 バイクが同じなら…。

 今なら自分の才能をもうちょっと客観的にみることができるのだろうけれど、あの頃は自分の才能を盲目的に信じていた。若かった。いや、青かったってやつだ。

 「俺は、実力で勝負したいんだ!」

 そんな夢をかなえられそうなのは、アメリカしかなかった。もともと、アメリカでは市販車によるストックレースが盛んだった。改造範囲がせまいからこそ要求される純粋な速さ。スーパーバイクも、もともとはそんな趣旨で行なわれていたように思うけれど、実際は…。

 しかし、アメリカではほぼストックのままでガチンコに勝負できるレースがあった。特に、基本的にプライベーター同士の闘いだった750㏄クラスにはチャンスがあった。

 正直、日本では優勢とはいえなかったスズキのバイクだったけれど、買ったままの状態でのヨーイドン! であれば、間違いなく一番速かったのは噂どおりだった。それだけでなく、壊れにくいタフさ。パーツ代も安く、そのクラスはGSX-Rカップと呼んでもいいほどの占有率を誇っていた。ワンメイク状態だと参戦ライダーは限られそうに思われるけれど、ワークス契約を狙う活きの良いライダーはみんなGSX-Rを選ぶため、レベルは高い。実際、アメリカ出身の有名ライダーは、プライベーター時代に必ずスズキに乗っていた時代があるほど。ニッキー・へイデンだってベン・スピーズだってホプキンス、ラッセル、ポーレンだって…。

 最初の年はトータルで30以上のレースに出場したけれど、オイル交換のみで乗り切った。バイクを壊したら帰国。そんなギリギリの金銭状態で闘っていたから、そんなタフさは本当に助かった。それじゃあ成績も出ないだろう? 残念ながら、ローカルレースでは数多くの優勝を味わわせてくれた。

 そして、味わったのは勝ったという嬉しさだけでなかった。スズキが行なっていたコンテンジェンシープログラム。つまり賞金制度によって、多くのレースで賞金がもらえる。全米選手権のAMAなどの大きな大会だけでなく、僕が出ていたようなローカルレースでも。もちろん、全てのレースに賞金が出るわけではないから、そのレース開催を狙っていく。だから賞金稼ぎのようなライダーもいっぱいいた。僕もその中に混じって、1年間でマシン代くらいは賞金で稼がせていただいた。

 丈夫で速いという性能面でのサポートだけでなく、このようなプログラムによってもライダーを支援するからこそ、なんとか続けられた面もあった。

 翌年はAMAにフル参戦することができ、しかもラグナセカでは2位表彰台と、たいした戦歴もない僕のレーサー人生で最も輝いていた年になった。

 若かった自分のプライドは少し守られたし、世界にはスゴイ奴がいっぱいいるんだと青かった自分を知る機会にもなった。

 大きなサポートも受けずに妻と2人で転戦し、自分なりに満足する結果を得られたのはGSX-Rだったから。メーカーの真面目さと良心には感謝している。

 きっと、そんなライダーが世界中にたくさんいるはずだ。

文・鈴木大五郎

Daigoro Suzuki

過去にはAMA、全日本、8耐等に参戦。現在はモーターサイクルジャーナリストとして活動。それらの経験をいかし、スポーツライディング、ダート、キッズ向けのスクールを主宰。スクールだけでも年間50回以上行なっている。BMW公認インストラクター。

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