四輪のレースであれ二輪のレースであれ、最高峰の舞台での実力はみな互角。誰が勝ってもおかしくはない。しかし実際にシリーズチャンピオンを手にできるのはほんの一握りだ。チャンピオンと、それ以外の人間を隔てる壁は大きい。チャンピオンとはいったい何なのだろうか。
2013年11月3日、「スーパーGT」の最終戦が「ツインリンクもてぎ」で開催されていた。5番ピットに陣取っていた「ゼント・セルモ」の面々の目線の先にあったのは、コース上のレース状況を知らせるいくつかのモニターだ。その画面には刻々と変化するタイムと順位、そして周回数が映し出されていた。
予選4番手からスタートした「ゼント・セルモ」の平手晃平は、レース序盤で2位へ浮上。そのまま「レクサスSC430」のステアリングを立川祐路へと繋いだ。中盤、立川はひとつポジションを落として3位となり、代わって2位へ浮上したのは、最も警戒すべきライバルの1台、塚越広大がドライブする「ケーヒン」のホンダHSV-010だった。この最終戦を迎えた時点でのポイントリーダーは、「ゼント・セルモ」の立川、平手組である。タイトルを優先するなら、前の「ケーヒン」を深追いする必要はなかった。
「前を追いたい。でも守らなければならない」
GT500クラスで過去に2度チャンピオンに輝いた経験を持つ立川祐路は、単独走行の中で自分が果たすべき仕事の締め括り方を考えていたことだろう。
そんな戦局に緊張感をもたらしたのが、後方から立川との差を急速に詰めてきた2台のSC430だ。石浦宏明(デンソー・サード)と中嶋一貴(ペトロナス・トムス)のペースは、明らかに立川のSC430より速く、もつれあうように4位と5位を走行。それどころか、立川をのみ込み、3台による3位グループを形成しようとしていたのだ。
この時の局面を整理しておこう。
立川、平手組の「ゼント・セルモ」がタイトルを獲得するには、「ケーヒン」が2位でゴールしても4位までに入ればいい。しかし、5位では逆転でタイトルを失うのだ。言わば、その明と暗の境界線とも言うべき2台が、立川の背後にピタリとつけ、いつそのポジションが奪われても不思議ではない状況だった。
この明と暗は、5位走行の中嶋一貴にとっても同じだ。なぜなら、中嶋とその僚友であるジェームス・ロシターは、このレースをポイントランキング2位で迎えていた。つまり、この3位グループのトップに立ち、上位にトラブルでもあれば、今度はそのタイトルが彼らのもとに転がり込んでくることになるからだ。
レースはみずものである。
どれだけ速いラップタイムを刻もうとも、どれだけライバルをリードしていようとも、結果はチェッカーを受けるまで分からない。そこにいる誰もがそのことを痛いほど分かっており、だからこそ誰もが押し黙ったままだった。
自分の役割を終え、立川の走りをただ見守るしかない平手は、心の中で「早くチェッカーを出してくれ」と念じていただろう。しかし、それを口にはしない。
そうでなくても平手のレース人生はいつもギリギリだった。これまでも掴みかけていたチャンスが、その目前で手中からこぼれ落ちたことなど一度や二度ではなかった。だからこそ、安易なことは言えなかったのだ。そして、そのことを誰よりも知る父、平手敏雄もまた同様だった。自分の息子がチャンピオンの座を手繰り寄せていくその様を、ただ祈るように見つめていた。
レーシングドライバー、平手晃平27歳。日本のトップカテゴリーであるスーパーフォーミュラとスーパーGT500にフル参戦するトヨタ生え抜きのワークスドライバーだ。
’99年、13歳で全日本ジュニアカートの初代チャンピオンに輝いた後、’02年には史上最年少の16歳という若さでフォーミュラトヨタに参戦。その翌年にはヨーロッパへ渡り、フォーミュラルノーやF3、GP2で活躍しながらトヨタのF1マシンのテストもこなすなど、その経歴はあまりにも輝かしい。
しかし、平手晃平はいつも崖っぷちに立っていた。
レースにおける崖っぷち。それは多くの場合、〝お金〟を意味する。
マシン代はもとより、タイヤ代、メンテナンス代、ガソリン代に遠征費と、それが例えカートでもあっても、トップチームになれば年間1000万円単位のお金が動く。
もちろん、本格的な四輪レースになれば、個人のレベルはとうに越え、政治力すら介在してくる。才能だけではなく、ここぞという時にお金を注げるかどうか。そこは良くも悪くも社会の縮図であり、あらゆる意味で力のあるなしを見せつけられる振るい落としの場でもあるのだ。
そういう世界があることすら知らなかった平手が、スピードに魅了されたのは小学校5年生の時だ。父、敏雄が趣味で楽しんでいたカートに乗せられたのがきっかけとなった。
その日以来、野球少年だった平手の手にはバットではなくステアリングが握られるようになり、その才能を開花させていったのだ。
そんな平手の天性のスピードが、地方選手権に収まらなくなった頃、どんどん先鋭化する全日本選手権との間を埋めるため、ワンランク下の全日本ジュニアカート選手権が開催されることになった。馴染みのカートショップの勧めで、これに参戦した平手は、いきなりその初代チャンピオンを獲得。平手が中学一年生の時のことである。
しかし、その頃はまだレースにおけるお金のことをよく分かっていなかった。アマチュアのカートレースとはいえ、毎週末のように練習か、またはレースに出ていれば、その出費はかなりのものになる。
ボロボロのバンに、最低限の工具とパーツ。家族全員が、その中で寝泊まりしながらの転戦だったが、その負担はやがて一歳しか違わない弟に波及。カートを続けるために必要な環境を兄に集中させるため、弟はカートから遠ざかることになった。酷な言い方をすれば、レース界における振るい落としという現実を、最初に兄弟同士で味わうことになったのである。
同時に、このことは平手家の資金が限界を迎えつつあったことも意味していた。息子が望むなら、その未来を切り開いてやりたい。しかし、その覚悟がどれほどのものかを計りかねた父の敏雄は、ある日、息子の机に手紙を残した。
〝パパの仕事はいますごく暇でお金がありません……〟そうやって始まる文面には、会社の景気がよくないこと、いつまでサポートできるか分からないこと、しかし、我が子の成功を信じ、全力で応援したいと思っていることが率直に綴られていた。
「もう遊びではない」平手が真にレーシングドライバーを志したのは、この瞬間からだったという。
祖父に至っては、土地を売却してまでレース活動を支援してくれた。それでも資金という名の崖っぷちは容赦なく次から次へとやってきた。
「次が最後かもしれない」
平手のいないところで、両親は何度もそんな話し合いを重ねたという。しかし、本当にもうギリギリという局面に陥った時に、次のステップのキーになる人物が平手親子の前に現れ、いくつかのチャンスをもたらしては去っていく。そんな不思議な巡り合わせを幾度も経験することにもなったのだ。
その下地にあったのは、絶対にあきらめない強い意志に他ならないが、それを持ち続けられるかどうかもまた、レースの世界で生き残るための資質なのである。
なぜなら、メカニックやエンジニアは言うにおよばず、レースを左右する重要な要素は結局のところ人なのだ。サーキットには、有形無形のパワーが溢れている。それをいかに「このドライバーに勝たせたい」と思わせるパワーに変えていくかが重要になるのだ。言い換えれば、それができる者だけが、チャンピオンの可能性を持つと言ってもいい。いつの頃からは、平手はその資質を知らず知らずのうちに磨いていたのかもしれない。
例えば15歳の時、アマチュアのまま終わるか、プロへの足掛かりを掴めるかという大きな岐路に平手は立っていた。しかし、平手家には自力で4輪レースの門を開くような経済力は無く、親にこれ以上の負担はかけられないと感じていた平手は、アルバイトで10万円を捻出。FTRS(フォーミュラ・トヨタ・レーシング・スクール)と呼ばれる若手レーサー育成プログラムの受講料に賭けたのだ。
「これでダメならあきらめもつく」。親も子も、そう思えるほど、あがきにあがいた上での最後の挑戦だったのだ。とはいえ、これは無謀な挑戦でもあった。なぜなら、年齢的に平手は運転免許を持っておらず、当然、一般的なマニュアル操作の経験もなかったため、スクール初日はクルマに乗せてもらえなかったほど。本来なら振るい落としのステージにすら上がれないはずだった。
ところが、平手はその場に居られただけに留まらず、その未知なる伸びしろが評価されてスカラシップまで勝ち取ってみせたのだ。そこにいた誰もが才能のきらめきに触れ、平手晃平というドライバーの行く末を見たくなったのだろう。ほどなく、16歳のフォーミュラドライバーが誕生。17歳で高校を退学して渡欧、イタリア、イギリス、ドイツのチームで活動するという目まぐるしさで、レースシーンを駆け抜けてきた。それから10年。浮き沈みの中で、幾度もの挫折を経験した。しかし、平手はレースの世界で根を張り、生き残ってきた。そして今、スーパーGT500クラスのチャンピオンというひとつの頂点へと登り詰めようとしているのだ。
レース終盤、3位を死守しようとする立川と、それに続く石浦と中嶋。
それを見守る平手の脳裏には、前戦の第7戦オートポリスの一件が思い起こされていたに違いない。このレースで「ゼント・セルモ」はレース終盤までトップを快走していた。第6戦の富士スピードウェイに続く2連勝は、誰の目にも明らかだったが、立川はタイヤにダメージを負って急激にペースダウン。結果、ラスト2周半というまさかのタイミングで、逆転を許した苦々しいレースだ。
しかし、今回はそうはならなかった。
53周目にチェッカーが出た時点で「ゼント・セルモ」のSC430は3位を守り切り、「ケーヒン」は2位のままだった。石浦と中嶋は1秒後方にまで迫っていたが、それをしのぎ、抑え切った。
その瞬間、チームのピットは歓喜よりも安堵の空気に満たされた。長く、苦しいレース後半の重圧から解放され、なによりもシーズン途中では3戦連続ノーポイント、しかもポイントランキングは一時11位にまで下がるという絶対絶命のピンチをひっくり返した逆転劇に誰もが信じられないという面持ちだった。
絶対にあきらめない。
平手は今までそうしてきたように、今回もまた崖っぷちから這い上がってみせたのだ。
両親、兄弟、妻、娘、友人……。平手にとって大切なすべての人々が、この日サーキットに集い、初めてのタイトル獲得に湧いた。
思えば、初めてカートに乗って走った最初のワンラップこそが、この日のためのスタートだったと言えるのではないだろうか。
息子が駆け抜けてきたラップのほぼ全てを見てきた父の敏雄は、言葉こそ少なかったが、ピットレーンで息子の肩を抱き、託した夢が結実したことに目をうるませていた。
「晃平も結婚して子供が出来ましたが、まだ一人前とは思っていませんでした。でも、こうして仕事でもひとつの結果を残せたんですから、そろそろ認めてやってもいいのかも知れませんね」
それは、あくまでも親子だった関係が、親同士、あるいは男同士のそれへと静かに移り変わった瞬間だった。
これまで家族の夢を乗せて走ってきた平手晃平。
しかし、チャンピオンになった今、今度はより多くの人々の思いや期待を背負い、その立ち居振る舞いを次の世代に見せつけ、あるいは伝承していかなければならない立場になった。
その肩書きは重い。しかし、それこそがチャンピオンに求められる資質であり、人格でもあるのだ。
文・伊丹孝裕 写真・大川浩伸/長谷川徹/菅原康太
「チャンピオンという人格」の続きは本誌で