ダカールという桃源郷
ラリーファンでなくともダカールという単語を聞いたことがある人は多いだろう。アフリカ西岸の国セネガルの首都で、世界一苛酷とうたわれた『パリ・ダカール・ラリー(通称:パリダカ)』のゴールとなっていた町の名だ。パリを訪れたことのある人はいくらでもいるが、ダカールとなるとそうそういない。とりわけ、パリダカに参戦してリタイヤしたままの経験を持つラリーストにとって、ダカールは永遠のように遠いゴールだろう。’03年に参戦してリタイヤとなった佐野新世にとってもやはり、ダカールはそれ以来ずっと気になる場所であり続けた。「ダカールってどんなところなんだろうって思いはずっとあったんですよ」
今年1月、佐野はパリダカのレジェンドとして知られる菅原義正のアシスタンスカー(荷物を運ぶクルマ)ドライバーとしてアフリカ・エコレースに参加し、モロッコ、西サハラ、モーリタニア、セネガルといったアフリカ西岸の国々を走り、ダカールを訪れた。しかし佐野の口から次々と飛び出してくるのは、ダカールの話ではなく、セネガルの北に隣接する国モーリタニアのことばかりだった。ダカールを見たいという思いが動機だったはずだが、実際に現地を走るとラリーの競技性と同時に、現地の人々を取り巻く生活環境に強く興味をひかれたという。その話をする前に、佐野新世という男がどのような人物であるのか、そしてアフリカ・エコレースとはどんなラリーなのかについて説明しておこう。




’03年のパリダカ
少年期の佐野はインドア派で、ビデオゲームが大好きだった。しかし17歳の頃にバイクと出会い一変した。21歳からロードレースに参戦するようになり、2000年頃、日本で人気となっていたスーパーモタードに取り組むとたちまち頭角を現す。その技量と明るく前向きな性格を買われ、映画やドラマなどのスタント役を務めることが増え、業界での知名度も上がっていった。
「’03年頃、菅原さんからパリダカに出ようって誘われたんです。モタードはやってたし、筑波には週2回通うほどロードにのめり込んでましたが、オフロード経験はほとんどなくて、RMX250で河原に行って遊んでいたくらいでした」
菅原とは、佐野の父が同郷のよしみで年齢も近いことから親しくしており、菅原も佐野がバイクで活躍していることを知っていた。しかしオフロードやラリーの経験がない佐野に菅原が声をかけたのは、彼のライディングスキルなら走れるだろうと見抜いていたのかもしれない。
佐野もパリダカには興味がなかったが、おもしろいことをやりたい、そして行ったことがないところへ行ってみたいという好奇心から参戦を決意したのだという。そのような経緯で、佐野は’03年のパリダカに出場した。
「アフリカを走りはじめたらだんだんうまくなるのを実感できましたね。集中して練習しているのと同じなんです。楽しんで走っていれば苛酷さも忘れられる。最初の日は最下位でしたが、それでも毎日なんとかゴールしてリタイアする前には160台中57位にまで上がってました。速く走ることはできないけど、転ばずに走る技術はあると確信できました」
しかしラリー中盤のリビアで、マシントラブルが原因で転倒した直後に後続車のカミオン(大型トラック)にバイクを轢かれ、リタイヤを余儀なくされた。あと少しタイミングがずれていたら、佐野自身も轢かれていたであろう事故だったという。
「そこまで走れると思っていなかったから、リタイヤしても気持ちはあっさりしてました」
最初のパリダカ参戦のことをそう話すが、そもそもこの年は現地の政情悪化などの事情により、フランス・マルセイユをスタートし、チュニジア、リビアを経由してエジプトがゴールというルートだった。つまり、そもそもダカールには到達できない年だったのである。だからこそ佐野にとってダカールは特別な場所であり、憧れを抱いてきたのだろう。


アフリカ・エコレースとは
いっぽう、アフリカ・エコレースはパリダカがダカールラリーと名を変え、中東での開催となったアンチテーゼとして誕生したラリーだ。アマチュアリズムと冒険心に満ちていたかつてのパリダカを再現すべく’09年からはじまり、今年で17回目を迎えた。モナコ、あるいはマルセイユをスタートして船で北アフリカへ渡り、アフリカ大陸の西岸エリアを南下して、ダカールをゴールとする国際ラリーである。タイトルに「エコ」と冠されているが、燃費を競うものではなく、開催国の人々の生活環境向上を掲げ、学校設立などに貢献することを目的のひとつとしている。
菅原は’19年を最後にダカール・ラリーを引退した後、翌’20年から参戦をはじめ、サイドバイサイド(2人乗り四輪バギー)で2度の完走を果たすと、’24年からジムニーに乗り替えた。今年はジムニー・シエラで参戦し、そのサポートをするアシスタンスカーのドライバーとして“今後の下見がてら”と佐野もエントリーしたのだ。
「ポルシェをラリー仕様にしてAER(アフリカ・エコレース)に出るのもおもしろそうだけど、やっぱりバイクもいいなと思ってました。そうはいってもバイクで砂漠を走るのは大変だし、まずは観戦を兼ねて現地にいってみようと思ったんです」
そうして佐野はハイラックスのハンドルを握り、北アフリカの大地を走りはじめた。
「モロッコの景色は、建物の様式こそ違うけどフランスそのもので、クルマも少なくて運転しやすかったです。僕は英語はできないけど、フランス語なら少し話せるから意思疎通も問題ありませんでした。モタードや四輪のル・マン参戦でフランスに滞在していた経験を活かせることを実感できて楽しかったです。でもそれがモーリタニアに入った途端、景色がまったく変わったんです。子供たちがキャンプにやってきて物乞いをしてくる。1人にあげてしまうと奪い合いで喧嘩になるから応じちゃダメだし、かといって無視していると盗まれたりするんです」





アフリカの現実
モーリタニアの正式名称はモーリタニア・イスラム共和国といい、かつてはフランス植民地だったが1960年に独立。9割以上がイスラム教徒で公用語はアラビア語、主要外国語はフランス語で主に知識層が使うという。ダカールがある西岸地帯は比較的安全だが、サハラ砂漠が広がる東部ほど危険地帯となり、外務省の危険情報マップによれば中央部から東は渡航中止勧告、マリとの国境となる最東エリアは退避勧告が出されている。15世紀から20世紀に至るまでアラブ系民族が支配してきたこともあり、フランス植民地時代を経て独立した現在もその傾向は変わりなく、かつては奴隷だったアフリカ系民族が今も貧困にあえぐ。佐野が目の当たりにしたのはそうした歴史と現実だ。
「ショックでした。町にいる子供でさえこうなのに、荒野に住んでる子供たちはいったいどうやって生きてるんだろう…。日本に生まれ育った幸運を感じていました」
アシスタンスカーはラリーのルートと並走するように舗装路を行く。そのため人々が生活するエリアを通過することが多く、ラリーの参加者よりもモーリタニアの現実を直視することになったのだ。
「そこらじゅうゴミだらけで、とくにペットボトルが目立つんです。回収すればお金になるようなリサイクルシステムを作れないものだろうか。あとは教育ですかね。学校を作っても教師は足りているのかとか、いろいろなことを考えてしまうんです」
佐野には小学生の息子がいる。だからなおのこと、彼の地の子供たちの今を心配し、その将来に不安を見るのだろう。帰国してすぐ、佐野はSNSに「価値観が変わった」と綴り、さらに「来たときよりもきれいにして帰りたい」と日本人らしい素直な思いを吐露している。
「サーキットよりもラリーのほうが考えさせられることが多いですね」
苛酷な自然環境で行うラリーは、貧富格差や異文化ギャップによる現実にふれる機会は多いが、公の場で語られることは少ない。途上国へ押しかけ、ゴミを撒き散らして遊び、楽しかったと帰るだけでいいのか。佐野は自問する。
いっぽう、アフリカ・エコレースそのものに対しては、来年の参戦の可能性が見えてきたという。フランス語での意思疎通もできるし、サハラ砂漠という地球でもっとも厳しい環境を走る究極のアマチュアレースに挑みたい、という思いはいっそう強くなった。
「40代のうちに何かにチャレンジしたいと思ってきたのですが、AERを間近で見て、次のステップが見えました。来年のスタート時には50歳になってしまうんですけど(笑)、スキルは大丈夫だと思うので、あとは体力をしっかり作ることですね。どのクラスにどんなマシンで出るかはまだ決めてません。マシンやサポートも含めて確実に走りきれる体制で出場したいです」
アシスタンスカーを走らせて到達したダカールの景色と、エントラントとして走破した末の景色は見え方がまったく異なるはずだ。来年のアフリカ・エコレース走破の行方、そしてモーリタニアで見た貧困の現実に対する佐野の思考はさらに深まるのか、何かしらの答えは出るのか。どちらにも注目したい。








佐野新世 Shinyo Sano
山下 剛 Takeshi Yamashita
