濱口弘のクルマ哲学 Vol.50 Impeccable

文・濱口 弘/写真・THE MAGARIGAWA CLUB

クルマを買っても、どうしても自分好みに変えてしまう慢性的な病気に罹っている。

 ホイールだけの軽症時もあるが、デザイン、走行性能や制動の過不足を感じると、もう頭の中はその事でいっぱいだ。これはクルマと私のマッチングの不一致を擦り合わせ、一緒に暮らすために欠かせない作業、と独り言を言い許している様は、この連載をさかのぼれば、すぐに見つけられるだろう。

 過去にF355、V8ディフェンダーなど20台ほど拘った中でも、ジウジアーロの名作ランチア・デルタベースのインテグラーレ・EvoⅡのレストモッドは、その経験も含め私の宝物である。外装は再塗装する以外触れていないが、内装は総アルカンターラへ張り替え、エンジンはブロックだけ残し、電子制御を実装した。シャーシもスポット溶接をして、足回りからブレーキまで、オリジナルのランチアより剛性も性能も上げた。その果てに、購入価格の倍以上のコストと、4年弱の期間を費やした。それでも、やりきれない部分は残った。内装だ。剛性を兼ねたイタリアらしい美しい意匠のインパネにしたらいいんじゃないか、と空想したのだが、センスが迷宮入りした。不満点はくっきり見えているのに、改善できないジレンマが常にある。理想に近づくための時間もお金も、具現化できないストレスも、胸の中で消えない火となり燻った。

 そんな私の目の前に、いま、完全無欠なクルマがいる。シンガーがリイマジンしたポルシェ911だ。ビス1本も妥協せずシンガーが仕立て上げた逸品を前に、私はしばらく言葉がでなかった。こんなクルマが世の中に存在している、その喜びと混乱を押し殺した。初めてこのクルマの話を聞いた時、価格を中心に否定的な印象を持っていたにも関わらず、実車の圧倒的な存在に引き込まれていた。そんな私の背中に、このクルマのオーナーは「気を使わずに思いっきり攻めて、好きに乗っていいよ」と声を投げかけた。シートに座り、ステアリングを握り、シンガーのアートワークを視覚と感触で感じた瞬間、私はこれを作りたかったんだ、と、完璧な解を目の前にして、言い訳や遠慮が吹き飛んだ。

 クルマの持つポテンシャルを全て引き出せ。その域でしか見えないエンジニアのこだわり、部品の精度の高さ、作り手のこだわりや苦労を汲み取れ。そうクルマから囁かれ、私は自動的にイグニッションキーを回した。

 この音、この振動、この排気音は公道を走るクルマのエッジーさでは極限だ。ウィリアムズがチューニングしたエンジンは、ポルシェのフィーリングを残しつつ、異次元の世界へとドライバーを引き込んでいく。レーシングカーを真似るようなトゥーマッチさは無く、パワーバンドと排気音のバランス、シフトフィールやペダル類の感触も、無駄なく完璧と言う以外の言葉がない。荷重移動の度に、どのタイヤにどれだけ負荷がかかっているか、手に取るように伝わり、ドライバーは更にこのクルマへ没入していく。コーナー進入時は若干のアンダーステアはあるものの、そこから先はリアが回り込むようにクルマは旋回し、ボンネット中央部にいるシュトゥットガルトの跳ね馬は、自らエイペックスに向けて飛びこんでいく。極端なショートシフトのクラッチを踏んでいる時間は1秒もないが、その度に現実から切り離してくれる。怖さは無い。通常のレストア車両やレストモッド車両は、限界値が見えにくく、どこまで車体を信頼してよいか、探りきれない事が多いものだが、シンガーのレストアは違う。加速、減速毎に天を仰ぎたくなるフィーリングに、試走を終えた私は、興奮で手も足も震えていた。

 サーキットでのタイム計測は、マクラーレンのアルトゥーラ・スパイダーで出したタイムを、このクルマは余裕を持ちながら破った。しかしこのクルマのハイライトは走行性能だけではない。ダッシュボードまでが構造物として計算されている内装だ。ロールケージの太さ、シフトリンケージのダッシュボードとのバランスは、私だけでなく、目の肥えた消費者からも、レストモッドに初めて触れる人たちからも、高い評価であった。私のランチア・デルタも含め、多くのレストモッドがそうなのだが、拘りは一方へ片寄るものだと思っていた。それがシンガーの手にかかると、走行性能の縦糸と、意匠の横糸が紡ぐレストアのマトリクスは、お互い均衡を保って成立しているのだ。

 現代は事業にも製品にも、どんな社会課題を解決するのか、ストーリーを問われ、聞こえのいい物語やサービスが溢れかえり、ワンクリックで買われ、真似され、捨てられていく。しかし、唯1人のオーナーのワガママや素直な思いを、胸の真ん中で重く受け止めるメーカーが手がける製品は、964型の時代から変わらずその1人の宝物になっている。シンガーは、クルマの持つ力を私の中で再構築させ、私のクルマ人生の最後の1台は何だろう、と考えさせられる重い課題を与えた。

Hiroshi Hamaguchi

1976年生まれ。起業家として活動する傍ら32才でレースの世界へ。スーパーGTでの優勝を経て、欧州最高峰GTシリーズであるヨーロピアン・ル・マン・シリーズ2024年度シリーズチャンピオンを獲得。ル・マン24時間出場。フィアットからマクラーレンまで所有車両は幅広い。投資とM&Aコンサルティング業務を行う濱口アセットマネジメント株式会社の代表取締役でもある。

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