森高千里が1993年に発表した『渡良瀬橋』というバラードは、30年以上経った今も多くの人にカバーされるほど名曲として支持されている。
しかしこの歌に書かれた歌詞は地図で見つけた渡良瀬川の言葉の響きをもとに創作されたという。今回は栃木県足利市に実在する渡良瀬橋を伊丹孝裕がMAZDA CX-30でドライブした。
クルマを運転中、本誌、若林葉子からどこか行きたいところはないのかと問われ、「渡良瀬橋かなぁ」と答えた。森高千里のファンではないし、実のところ橋がどこにあるのか、何県なのかもあやふやで、なんとなく口をついて出た。さして盛り上がるやりとりとも思えず、むしろ(ほう、あなたはああいうのが好きなのか)という冷笑の横顔を想像したところ、意外なことに若林は「あぁ、いいね。私は松浦亜弥が歌ってる方が好きだけど」と返してきた。スマホには曲が入っているとも言い、だったらと、前号から復活したドライブページの第2弾を託された。
出かけるきっかけなんて、ひょんなことでやってくる。行先だけをぼんやり決め、ふと思い立って家を出るくらいでちょうどよく、そんな時にクルマというツールは寛容だ。天候の影響が少なく、朝早くても夜遅くても時間の制約を受けず、気ままに移動しながら好きなものを好きなように見る自由度を引き上げてくれる。電車やバスではなにかと縛りがあり、バイクだと操ることそのものに気持ちが傾いてしまう。そのどちらでもないドライブは、それぞれのほどよさを気軽に味わうことができる。
2月に入り、天気予報はしきりに強烈な寒波の到来を告げている。公共機関への影響は予測しづらく、ツーリングを楽しむにはやせ我慢の程度を超えているため、AWDとスタッドレスタイヤを組み合わせたマツダCX-30を選択した。うん、やはりクルマはいろいろなことを許容してくれるからいい。神奈川の自宅から栃木の足利市までは、カーナビに委ねるほどの行程ではなく、首都高を経由しつつ東北道を北上していく。朝日が関東平野を徐々に照らし始める、ちょうどその頃に渡良瀬橋北詰に到着しているはずだ。
橋が架かる渡良瀬川は、そのどこかこじんまりとしたイメージとは裏腹に結構長い。日光市の足尾ダムを起点とし、茨城県古河市で利根川と合流するまでの100㎞超の流れを指す。その間、川の左岸と右岸をつなぐ橋梁は、名もなきものも含めると70本に達する。河川全体を大きく分けると中流に位置し、栃木県と群馬県をまたぐ、およそ6.7㎞の県道5号線の内の243mを担っているのが、渡良瀬橋である。
ここでいう渡良瀬橋とは、無論森高が作詞し、歌ったタイトルで広く知られるようになった橋のことだが、川の名称が渡良瀬川ゆえ、他にもその文字が与えられた橋が少なくない。名はまったく同じながら、構造や役割が大きく異なる日光市足尾地区の渡良瀬橋を筆頭に、新渡良瀬橋、渡良瀬川大橋、第一渡良瀬川橋梁など、全部で12を数える。
森高はなぜその橋を選んだのか。それは、当地の観光案内用のリーフレットや動画『「渡良瀬橋」と私』の中、本人の言葉で語られている。歌詞のヒントを探して地図帳を眺めていた時に目に留まったきれいな響きの川と橋。それが渡良瀬川であり、渡良瀬橋だったという。言わばたまたまに過ぎない。たまたまではあるがしかし、それを地図からすくい上げたところに彼女ならではの創作性がある。結果、楚々とした佇まいを想像させる橋の語感と字面に、森高千里という同質の名が組み合わさることによって、出来過ぎなほど清澄としている。
生まれた歌詞と旋律も同様だ。なんの技巧もつくさず、見たまま浮かんだままを文字にした歌詞は、ともすれば中高生の日記か作文のようでもあり、齋藤英夫による平易で淡々とした旋律がそれを補完。一度聴けば、すぐ鼻唄交じりに口ずさむことができ、間奏のリコーダーの素朴さも相まってどこか童謡的だ。だからこそ、長く親しまれ、様々なひとに歌い継がれているのだと思う。
『渡良瀬橋』には、かつて恋人関係にあった男性への想いが綴られている。
足利で生まれ育った「私」が東京、もしくはさほど遠くない地方の大学で「あなた」と出会い、恋に落ちる。最初からそういう約束だったのか、在学中になんらかの事情ができたのか、彼女は卒業後に地元へ戻ることになったのだが、それでも交際は続いた。そんな中、やがて結婚を意識するようになったのは、ごく自然な流れだったに違いない。
普段、都会で働いているであろう彼は、時折電車に乗って足利までやって来る。彼が来られない時は、彼女が時折、街角の公衆電話から連絡する。社会に出てまだ日が浅く、休みは定期的なものではなかったはずだ。彼女と会うのは月に一度か二度のことで、そんな日々の中、まだ若かった彼は、足利で暮らしたいと口にする。
それを彼女はやんわりと拒絶する。彼にそう言わせたのはひと時の情であり、後先を考えたものではないと感じ取っていたからだ。きっとしばらくはうまくいく。でも、数年が過ぎ、5年が経った頃はどうだろう。都会の生活を覚えている身にとって、まして足利に縁もゆかりもなかった彼にとって、この街は狭くなるかもしれない。決定的ななにかでなくとも、いつか言いようのない渇望を抱き始めるのではないか。その時に、自分のことが足枷になるのは耐えられそうもない。そう考えた彼女は、別れを切り出しながらも彼を忘れられず、渡良瀬橋の向こうに沈む夕日を独り眺めている。
先が見渡せないふわついた男と、先を見越して自己完結し、そんな自分にどこか陶酔している女の歌でもある。
もちろんこれは、『渡良瀬橋』に描かれたシーンに、あれこれ装飾した一個人の勝手な解釈ではあるが、今回、市街の端から端までを歩いてみたことで、彼がこの街を好んだ理由も、彼女がいつか変化する彼の心情に不安を抱いたのも、少しわかった気がした。
京都の小さな地方都市、宇治で生まれ育った自分にとって、足利はどこを切り取っても懐かしさを覚える土地だった。高低差が少ない街中を小高い山々が取り囲み、その中心に流れる川と架けられた橋のひとつが陸標として存在感を放っているところなど、そっくりだ。社寺を多く抱えること、平安から室町に至る時代に深いゆかりを持つこと、茶の湯や生け花といった伝統文化が根付いていることもそう。加えて足利は、映画やドラマ、MVのロケ地にたびたび選ばれ、また、市内には作られたものではない、リアルに昭和レトロなカフェや飲食店が多数点在する。簡単に言えば、映えにあふれている。
整備された街並み、歩きやすい通り、新と旧が混在する構造物、無料が珍しくない公共の駐車場。物見に重きを置いた中心街は、少し高台に登れば一望できるほどの手の内感にあり、訪れた誰にとっても印象を残す。
ただ、そこに歴史があり、観光的であればあるほど、よそから訪れる者と、それを迎える者との間には境目がある。きれいなところだから、夕日が好きだからという理由で飛び越えられるほど、浅いものではない。逆に、足利に似た土地を離れて30年近く経つ自分などは今更地元へ戻れないし、もし独り身だったとしても、そこにどっぷり根をおろしてきた誰かと生活を共にすることは想像できない。「故郷は遠きにありて~」という室生犀星の有名な詩句は決して追想的なものではなく、郷里に対する悲哀や愛憎が含まれている。暮らすというのは存外難しい。我が身を振り返り、思いもかけずそんなことを考えていた。
『渡良瀬橋』が送り出されたのは、’93年のことだ。世代がとっくにひと回りしているのに、今回真っ先に頭に浮かんだのだから歌の力というのは強い。橋のたもとにはのちに歌碑が立てられ、今も多くの人が歌詞そのままに、トラス橋の向こうへ沈みゆく夕日を見ている。
先の動画の中で森高は、詞を書く以前(’89年)に足利を訪れる機会があり、思い返せば、その時に渡ったのが渡良瀬橋だったんじゃないかな? と述懐している。数年後に地図を見た時にその情景が呼び覚まされ、歌詞のインスピレーションにつながった……というストーリーだが、実はこれ、「ないかな?」という言葉尻にあらわれている通り、おそらくかなりの確度で記憶違いなのでは、と想像する。
というのも、’89年の足利来訪は、足利工業大学(現・足利大学)で開催された学園祭へ出演するためのものだった。『ザ・ストレス』や『17才』のヒットですでに知られた存在の彼女は、都内からクルマで移動したと考えるのが妥当だろう。当時はまだ北関東自動車が開通しておらず、東北自動車道を使った場合のシミュレーションを幾通りか試してみても、渡良瀬橋を渡って足利工業大学のキャンパスに入るのは不自然なのだ。仮に移動が電車だとして、JR足利駅で降りても同様だ。唯一あるとすれば東武伊勢崎線の足利市駅を使った可能性だが、それならアクセスがよく、道幅が広い中橋や鹿島橋を通ったのではないか。
我ながら野暮なことを書いている。ここで言いたいのは、リリースから30年以上が経過してなお、自分をそこへ連れ出し、方々を歩かせ、あれこれと物思い、ちょっとした想像と考察をもたらしてくれた歌への感謝だ。時間も場所も自由に行き来きすることができ、心地よさが残った。
野暮ついでに大きな蛇足をひとつ。松浦亜弥がカバーした『渡良瀬橋』のMVで登場する橋は、川ではなく運河に架かる橋であり、足利ではなく都内に見つけることができる。
伊丹孝裕/Takahiro Itami