HYODのこれまでとこれからと 後編

文・若林葉子 写真・神谷朋公(※)

前号(Vol.265)では『HYODのこれまでとこれからと』(前編)と題して、
創業者の兵頭満昭氏の夫人である多美江さんを中心にHYODのこれまでの歩みを振り返った。

後編では HYODの現社長である昭則氏の言葉を元にHYODのこれからを見通してみたい。

昭則社長の誕生

 日本を代表するモーターサイクルウェアブランドである「HYOD」をブランドとして立ち上げたのは兵頭昭則さんである。昭則さんはHYODの礎を築いた先代社長、満昭氏の長男だ。満昭氏が2002年に53歳の若さでこの世を去り、事業を引き継ぐことになったとき、昭則さんはまだ28歳だった。亡くなる1年ほど前から2人は満昭氏の病床で打ち合わせを重ね、昭則さんは徐々に次期社長としての気持ちの準備を整えていった。「親父が病気になって、でも会社は誰かが続けていかなきゃいけない。漠然と自分がやるしかないというイメージはあったんです」満昭氏を慕っていた創業以来のメンバーもそばで支えてくれたから、当面の間はそれほど大きな心配はなかった。昭則さんの葛藤はもっと別のところにあったのだ。

 「社長になるに当たって、先代がやって来たことは当然、継承していく。先代が積み重ねてきたことは絶対に否定しないという決意はありました。ただ先代や母と僕とではあまりにキャラクターが違う。だから同じことはできないという感覚があったんです」

 前編を読んでいただければ分かるが、満昭氏と妻の多美江さんは、2人ともオープンな性格で、誰とでも家族のように接する人たちである。彼らを慕って常に人が集まってきた。しかし昭則さんはどちらかというと内省的な性格である。先代や母親のような人との付き合い方はできない。だから『先代がやってきたことを大事にしたい』『生まれたばかりのブランドをなんとか形にしていこう』という決意だけは揺るがなかったが、その後に「でも…」と、昭則さんの気持ちはいつも堂々巡りしていた。当時の昭則さんはまだ自分が本当は何をしたいのか、どうしていけばいいのか分かっていなかったという。「自分のアイデンティティはなんだろう」そこが彼の社長としてのスタートだった。

先代が遺したもの

 先代の満昭氏は多くのものを遺したが、その中でHYODにとって大きな意味を持つものがふたつあった。そのひとつがHYODのブランドロゴである。これは兵頭家の家紋である折敷紋おしきもんを由来としている。ブランドロゴをデザインするに当たって、「HYODO」の最後の「O」を取って「HYOD」という表現を完成させたのは昭則さんだ。「僕とデザイナーで実際にレザースーツにロゴを落とし込んでみたら、なんかバランスが悪い。最後の『O』の収まりが良くないんです。それで『O』を取ってみようかと。すぐには読めないけど、このデザインの方が気に入ったからこれでいこうと」 それがかえって良かったのか、HYODのレザースーツをローンチしたときに海外のブランドと勘違いされて話題となった。HYODのロゴは、まさに先代と昭則さんのふたりのアイデアが重なり合ったと言えるのだ。

 もうひとつの先代の遺産はレザースーツの既成33サイズ展開だ。それまでレザースーツと言えばせいぜいM・L・LLの3サイズくらいしかなく、ライダーはそのどれかを選ぶのが普通だった。ユーザーは妥協するか、もしくは全身を採寸して作る高額なフルオーダーを注文するしかなかった。そこでフルオーダーに近い最良のレザースーツを提供しようと「既成33サイズ設定」という仕組みが生まれたのである。この「既成33サイズ」を基本メニューとして、さらにそれを試着できるようにしたことの反響は大きかった。レーシングスーツこそジャストフィットすることが理想であり、それまで妥協を強いられてきたライダーにとって、プロと同等の快適性や安全性を得られるようになったことは歓迎すべきことだった。「先代の亡き後、遺してあったメモでそれを知ったんですけど、先代は全ての人に共通の満足を提供したいという想いが強かったようです」 もしかしたらこれは満昭氏が自分のキャリアを紳士服からスタートさせたことも関係しているのかもしれない。満昭氏の長い経験から、ほとんどの日本人の体型は33パターンでカバーできるという確信を得ていたのだろう。昭則さんはそれを先代の遺言と受け止めて、この既成33サイズでの販売方法を確立させたのだ。

バイクには乗らないという決意

 自分のアイデンティティはどこにあるのか。そんな葛藤を抱えながらも、HYODブランドをスタートさせた当初の昭則さんにあったのは、ただ毎日を一生懸命やりきろうという一心だけだった。

 「会社をその後どうしていきたいかということすら考えていなかった気がします」と、当時を振り返るが、昭則さんはその後の20年で着実に事業を軌道に乗せて、会社を成長させ、HYODブランドを立派に確立させた。少なくとも外から見る限り、HYODは盤石に見えた。しかし昭則さんはいつも不安だったと言う。そのひとつの理由として、昭則さんはバイクに乗らないからだ。「僕の我儘なところだと思っているんです。自分がバイクに乗ってしまうと、自分が良いと思うものしか作らなくなる。こういうウェアじゃないと俺は乗れないと、それ以外のものを排除してしまう気がするんです」 彼がバイクに乗らないのは、経営者として視野が狭くなること、また対極的な視点を失うことへの恐れがあるからだ。同時にだからこそいつも不安が付きまとう。これで合っているのだろうかと。

 ただ本人の辛さは別として、不安であることは決して悪いことではない。不安であるからこそ人は感覚を研ぎ澄まし、深く考えて、試行錯誤する。むしろ安心は時に油断に通じて歩みを止めることさえある。それに昭則さん自身はバイクに乗らなくても、ずっと筋金入りのバイク乗りたちに囲まれてきた。錚々たる日本のトップライダーが常に“うるさ方”として昭則さんの側にいたからだ。そもそもレザースーツは時速300㎞/hの世界で機能しなければいけない究極のスポーツウェアだ。だから彼らトップライダーに着用してもらい、そのフィードバックを受け入れて、それを商品に反映する。その繰り返しが今のHYODの根幹をつくってきた。またライダーだけでなく、「今日も無事に帰ってきますように」と見送るライダーの家族の視点に立った商品開発ができるのも、ライダーとその家族と長年に渡り付き合ってきた昭則さんだからこそ可能なのではないだろうか。

カッコいいの先にある文化

 進むべき道に悩んだ黎明期を経て、昭則さんのアイデンティティが形となったのが、2019年に発表された「ROMAN BLACK(ローマンブラック)」だ。ローマンブラックは、HYODの原点であるレザースーツの3Dパターンを元に発展させたHYOD渾身のレザーウェアシリーズである。そしてバイクから降りたときのスタイルの良さを何よりも追求している。一着一着が丁寧にハンドメイドで製作されており、ジャケットを手に取ると、ため息が出るような上質さを醸し出している。ライダースジャケットではあるが、バイクに乗らない人が買い求めることが多いと聞いても、「そうでしょうね」と素直に納得してしまう。バイクに乗らなくても、バイクに憧れる人、バイクの世界観を愛する人はたくさんいる。バイクには乗らないけれど、バイクウェアを身につけることで、ライダーのスピリットに触れていたいという人は少なくない。そんな人を排除したくない。そういう人を受け容れたい。ここにこそ昭則さんらしさが表現されているのである。

 HYODの社員向けに作られた「ROAD-WEAR CONCEPT」というコンセプトブックにはたくさんのことが記されているが、一際目を惹くのは次の一節だ。「HYODを身に付けるだけでかっこよくなれる。我々はそんな憧れの存在となり続ける。HYODはモーターサイクルを作っているわけではないから、バイクそのものの良さを謳うことはできない。しかし自らが憧れのバイクウェア、ギアのブランドで居続けることによって、究極的にはHYODを身につけるためにバイクに乗りたい、HYODを知ってバイクに関心を持った、そんな人たちを多く創出し、モーターサイクルの世界に貢献していきたい」と宣言しているのである。

 「かっこいいって永久不変ではないですよね。流行りだけを追うとそれは表層的なものになってしまう。だから流行っているもの、評価されているものの背景にあるものを発見して、そこから本質的なモノを表現していきたい。その積み重ねがいつしか文化になっていくと思うんです」HYODがこれから目指していくのは、従来のコンセプトである「SPEED-STYLE」を内包しつつ、その先に新たな価値を提供していくというブランドの進化なのである。

兵頭昭則/Akinori Hyodo

1973年、静岡県磐田市生まれ。レザースーツの生産現場や製品開発、バイク用品店舗の運営を経て、2002年に28歳で(株)ヒョウドウプロダクツ代表取締役社長に就任。2004年からオリジナルブランド「HYOD」を立ち上げる。モーターサイクルウエアを進化させた「ROAD-WEARコンセプト」を掲げて多くの斬新なプロダクツをリリースしている。

HYODのこれから

 これは終わりのない挑戦といえるだろう。そしてその挑戦を支えるのは創業当時から続く、HYODの“ものづくり”の技術である。HYODは自社の優れたクラフトマンの集まるファクトリーを「HYOD ORIGIN WORKS」と呼んでいる。それは日本のレザースーツの原点を創造したHYODの象徴といえる場所だ。クシタニで始まり、RSタイチのOEMを経て、アルパインスターズのレザースーツの立ち上げを経験して来た職人たちが、最新の技術やマテリアルを組み合わせて一着一着、想いを込めてHYOD製品を作りあげていく。その姿勢は相手がプロであれ一般のユーザーであれ変わることはない。「僕が何かやりたいと言ったら、実現してくれる人たちがいる。土台は先代の時代にすでにあったんです。それがHYODの強みですね」HYODは常にものづくりに重点を置いてきた。いうなればクリエイター集団なのである。「ビジネスとしてはもちろん製品を売らなければなりません。でも僕自身が“ものづくり”が大好きだし、自分たちのつくった製品には最後まで責任を持ちたい。そういう信念のあるブランドでいることの方がはるかに大切だと思っているんです」

 先代が他メーカーのOEMを製産する中で積み上げてきたものづくりの伝統。そこに現社長、昭則さんの情熱とアイデアが重なり、今のHYODブランドがある。そして、古参のスタッフに加え、最近は若く活力のある社員も増えてきた。以前のように「言わなくても見ていれば伝わる」というやり方ではなく、コンセプトブックを通して互いの意見を聞きつつ、ともにブランドを創っていく時代になってきたという。年月とともに地層が何層にも重なり合うように、HYODは変わらないものを深層に湛えながら、これからも本質的な“ものづくり”を追求しつつ、変化を続けていくのだろう。

フラッグシップストア HYOD PLUS HAMAMATSU

住所:静岡県浜松市中央区市野町2732
TEL:053(465)8282
営業時間:10:00~19:00(毎週火曜日定休)
https://www.hyod-products.com/store/hamamatsu/

『HYODのこれまでとこれからと(前編)』は「ahead archives」で読むことができます。


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