若い時は焦っていた。全てのコト、モノが人生一度きりであるかのように、本能のまま我先に掴んできた。
そうして遮二無二に手に入れたそれを見るたびに、焼けるような情熱を昨日のことのように思い起こす。壮年期となった今の私にはそれも良い思い出だが、アルプスの雪解け水のように、人と人の間を通り、磨かれ、自然と私の手に降りてきたモノのほうが、似つかわしいと思うようになった。
自動車メーカーからの援助を受けない、いわゆるプライベーターと呼ばれるレーシングチームは、どのレースカテゴリーにおいてもグリッドのマジョリティを占める。チームオーナーの情熱と予算が基本であり、上位カテゴリーのレースだと、かかるコストが莫大な事もあり、その時代での〝お金周りが良い〟チームオーナーが入れ替わり立ち替わり、そして消え、新陳代謝されるのがレース業界である。日本には片手で数えられる程度ではあるが、何十年とレースへの情熱を注ぎ続けるプライベートチームがある。その1つが、静岡県富士市に本拠地を置く、ヒトツヤマレーシングだ。全日本GT選手権からスーパーGT、スーパー耐久、アジアン・ル・マンシリーズのレースに、世界的名車マクラーレンF1 GTRやフェラーリ550GT1プロドライブ、ポルシェ911GT3RSRを駆り日本の自動車メーカーを相手に戦ってきた。
2014年から始まったスーパーGTでの活動を2021年に終止符を打つまで、同チームはアウディジャパンのオフィシャルチームであった。この10年、チームの舵を切っているのは創業者の次男である。私と彼との出会いは2007年、私がまだレースを始める前になる。私がお世話になっていたイタリア・フランス車の専門店で、東京の大学に通う彼はアルバイトをしていて、車両の回送や洗車など裏方仕事を行っていた。私の家にも何度もクルマを持ってきてくれたこともあり、クリーンカットの好青年は育ちの良さが目立つ印象だった。
翌年、私がレースを始める事を彼の上司に話していたら、そこで彼のお父様がレーシングチームを所有していると知った。そこからお店で会うよりもサーキットで会うことが多くなり、2011年、私がGTアジア鈴鹿戦へアウディR8 LMS GT3でスポット参戦し、コースレコードと共に優勝を飾り、アジアのGTシリーズへのデビューのきっかけを作ってくれたのが、ヒトツヤマレーシングだ。私のアジアでのレース、ビジネス、またその後に挑戦する欧州GTやル・マン24時間レースの道は、このヒトツヤマレーシングから始まったのだ。
そんな彼がアウディのオフィシャルチーム運営を始めた時に、サーキットに乗ってきたクルマが気になっていた。私が欧州でのレース時、オーストリアのレッドブルリンクのパドックで見かけて一目惚れしたクルマ、アウディA1クワトロだったのだ。この車両は世界333台の限定車で、日本には正規輸入されず、入手困難とされていた。80年代にWRCで大活躍し、今日では当たり前となっているフルタイム4WDを導入し、クワトロの名前を世に響かせた当時をオマージュした、A1ベースの瀟洒なクルマだ。真っ白なボディと特製ホイール、専用LEDリアライト、RSシリーズに使用される6速マニュアルのシフトノブ、フルタイム4WDに256馬力までチューニングされたエンジンなど、まさに運転を楽しむ小型ハッチバックに必要なものが全て詰まっている。彼は大学生の時から、私のクルマの趣味をよく知っている。逆に私も、彼が歴代乗ってきたクルマを把握している。欲しかったことを知っていたかのようにA1から降りてきた彼に、私はその場で、このクルマを売る時が来たら1番に声をかけて欲しい、と伝えた。
その日から8年。若かった私もいまは焦らず、点と点が繋がるのを待てるようになった。彼も覚えていてくれたし、私もずっと待っていた。そうして私の唯一の財産である人と人を繋げるようにして、私の元へやってきたA1を、改めて眺める。外装のデザインは2024年モデルと言っても誰も驚かないだろう。内装はタッチパネルや大型モニターが無い時代のクルマだが、それ以外は大きくアウトデートされている感は無い。当時のアウディが進んでいたのか、近年アウディのデザインが止まってしまっているのか、いずれにしてもモデルとしては10年前のものであることを全く感じさせない。そして、彼が大切に乗ってきたことがわかる個体だった。
10年単位の時間はどのクルマにも残酷で、技術面は、クルマを美味しく感じられる期限を大きく過ぎてしまっている。しかしこのクルマの性能どうとか、速い遅いはどうでもいい。見惚れたクルマを、当時大学生だったヒトツヤマレーシングの息子さんから譲ってもらった、それが全てだ。私にはA1の細い轍が、大きく頼もしく伸び続けていくのが見えている。
Hiroshi Hamaguchi