青の時間 僕はこれからも片岡義男の島に通う

文・河西啓介/写真・安田慎一

高校一年の夏休みに訪れた母方の実家で、3つ年上の従姉妹の部屋の本棚に並んでいた1冊の文庫本が目にとまった。

 赤い背表紙に書かれたタイトルは『彼のオートバイ、彼女の島』 ちょうどその頃、バイト先の先輩から原付を譲り受け、バイクに乗り始めたばかりだった僕は、「オートバイ」の文字に惹かれ、ふと本に手を伸ばし、ページを開いた。

 1977年に出版された『彼のオートバイ、彼女の島』は、作家・片岡義男の代表作だ。主人公はカワサキW3(ダブサン)に乗る青年、橋本コオと“ミーヨ”と呼ばれる若い女の子。物語はコオがソロツーリングに出かけた信州で、偶然ミーヨに出会うシーンから始まる。互いに好意を抱いた2人は、旅から戻ったあと手紙や電話で連絡を取り合う。そしてあるときミーヨが、「私の島に来ない?」とコオを誘う。ミーヨの故郷は瀬戸内海の小さな島だ。彼女の夏の帰省に合わせて、コオもその島に行くことを約束する。

 作品タイトルからも伝わるように、小説の中でコオにとってのオートバイとミーヨにとっての“島”は、対等な存在として描かれている。つまりコオにとってオートバイが自分の分身であるように、瀬戸内に浮かぶ小さな島は、明るく天真爛漫なミーヨ自身なのだ。この物語を読んだ僕が、“彼女の島”に憧れるのは当然の成り行きだった。

 僕が初めて“彼女の島”に行ったのは11年前、2013年夏のことだ。当時、僕が編集長をつとめていた雑誌『MOTO NAVI』で企画した、片岡義男特集の取材だった。小説のあとがきに、物語の舞台について書かれた「白石島という、瀬戸内海の小さな島」という言葉を頼りに、僕は東京から700㎞ほど離れた、岡山県の白石島へ向かった。

 笠岡港からフェリーに乗り、初めて島に降り立った僕は感激した。目の前には、まさに小説に描かれた光景が広がっていたからだ。青い空、白い雲、強い陽ざし。「夏」の要素を凝縮したような、片岡義男の言葉に倣って言うなら「完璧な夏」がそこにあった。昭和の時代そのままというべき素朴な風景が、強いノスタルジーをかきたてた。四方を海に囲まれ、隔絶された地理的条件ゆえか、僕らが住む場所とはまったく違う時間が流れているように感じられた。

 作品が書かれて40年近くの時を経ても、変わらずに小説の世界を感じることのできるこの島の風景を、今度は『彼のオートバイ、彼女の島』や片岡作品を愛する人たちと共有したいと思った。そして2年後の2015年夏、雑誌のミーティングイベントというかたちで、それは実現したのだった。砂浜にスクリーンを張り、波音を聞きながら、集まったみんなと『彼のオートバイ、彼女の島』の映画を観たことは、忘れられない思い出になった。

 その後、僕は事情によって行けなかった数年間をのぞき、毎年のように島へ行った。行くのはいつも8月のはじめ、コオが訪れたのと同じ時期だ。いつも抜けるような快晴に恵まれ、変わらない“あの夏”に会うことができた。作品の聖地であるということを超えて、いつしかこの島自体に強く惹かれるようになっていた。

 そして今年の夏、僕はふたたび、SNSで「彼女の島に集まろう」と呼びかけた。ここ数年でいろいろな状況が変わっていた。僕は雑誌編集長ではなくフリーランスの編集者になり、コロナ禍で“仲間と集う”ことが憚られる時期が続いた。正直に言えば、「いま僕の呼びかけに、応えてくれる人が果たしてどれほどいるだろうか」という不安もあった。だが「またあの島に、みんなで集まりたい」という気持ちを抑えることができなかった。

 幸い、それは杞憂だった。8月最初の週末、島にはバイクでやってきた仲間たちが集まり、みんなで砂浜でのバーベキューを楽しみ、映画を観て、話を交わした。中にはこのミーティングがきっかけで、片岡義男を知ったという20代の若者もいた。

 「夏はただ単なる季節ではない。それは心の状態だ」とは、『彼のオートバイ、彼女の島』の単行本の表紙に書かれているコピーだ。そしてこの言葉のなかに、僕がこの島に戻ってくる理由がある。

 僕らはこの島で、いつでも“あの夏”に出逢うことができる。オートバイに乗り始め、人生のあらゆることが「これから始まる」という予感に満ちていた、青く清々しい自分に戻れるのだ。だから僕たちは、これからもこの島にやってくる。心の中に“夏”がある限り。

河西啓介/Keisuke Kawanishi

1967年生まれ。広告代理店を経て自動車雑誌『NAVI』編集記者に。2001年『MOTO NAVI』を創刊。2010年に出版社ボイス・パブリケーションを設立。2012年『NAVI CARS』を創刊。2019年よりフリーランスとして編集、執筆業に従事しながら音楽アーティストとしても各地でライブ活動を行っている。

「青の時間」の続きは本誌で

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僕はこれからも片岡義男の島に通う 河西啓介


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