濱口弘のクルマ哲学 Vol.40 ル・マンへのオファー

文・濱口 弘

昨年11月、私の携帯へ知らない電話番号からメッセージが入った。

 読んでみると、是非我々とル・マン24時間を含む世界耐久選手権WECシリーズを戦ってくれないか、という内容だった。文章の最後に、「心をこめてザクより」と書いてあったが、ザクなんて知り合いいないけど、誰だろう、と直ぐに返信をした。「ザクさんて、どちらのザクさんですか?」と、するとまた直ぐに帰ってきた返事をみて私は目を疑った。「ザク・ブラウンです、マクラーレンF1の代表です」その字面を読んで、背筋が伸び、血が猛り立つのを感じた。

 残念ながらその連絡を貰った2日前に、私はヨーロピアン・ル・マン・シリーズの契約をランボルギーニと結んでいて、ル・マン24時間を含むWECに参戦するのは日程的に不可能だった。丁重にお断りしたのだが、数日間は何度もザクからのメッセージを読み返すなど、私のこのオファーへの心残りは明白だった。

 ところがその翌月、もう一度ザクから、ル・マン24時間だけ、この1戦で良いので参戦してくれ、と連絡が来たのだ。WECのシリーズドライバー3名が確定した後であったが、そのうちの1人のドライバーにル・マンだけは降りてもらい、私がそこに入るというシナリオだった。

 ル・マンには3つのカテゴリーが存在する。ハイパーカークラスの自動車メーカーが最新のハイブリッド技術を投入し争うプロトタイプのクラス。もう一つはLMP2と言われ、ル・マン・プロトタイプの略である、オレカのワンメーククラス。そして3つ目はハイパーカークラスに参戦している、もしくは参戦する予定があるマニュファクチャラーのみ参戦が認められるLMGT3クラスで、10メーカーがレース専用車両であるGT3をル・マンシリーズ専用に改良したクラスである。ここではLMGT3クラスにフォーカスして解説していきたい。

 LMGT3クラスは各メーカー2台ずつ、WECシリーズに参戦している合計20台と、米国のIMSAシリーズ、欧州GTWCシリーズ、ELMSシリーズ、アジアン・ル・マンシリーズのそれぞれのチャンピオンが招待枠で出られる仕組みになっており、合計24台がグリッドに並ぶ。ドライバーは1台につき3人。タイヤはグッドイヤーのワンメークで、通常のGT3よりダウンフォースが削られる方向になっていることや、性能調整であるBOPが、車体に装着を義務付けられるトルクセンサーでの出力管理となっており、かなり繊細で、また高いエンジニアリングがチームに求められる。

 今回私はマクラーレンF1チームのザク・ブラウンが設立したチームで、LMP2クラスでル・マン24時間を制した歴史も実績もある、ユナイテッド・オートスポーツ・マクラーレンからの出場である。

 ここで読者は、プロドライバーでもない極東住まいの私が、なぜレース業界から歓待のオファーを受ける立場にあるのか不思議に思われるだろう。それには日本の自動車レース産業とは全く違う、欧州におけるクルマとレースを愛するジェントルマン・ドライバーたちへのリスペクト文化にある。ここに書かれたことこそ、私が日本のSGTを飛び出し、海外シリーズへ没入していった理由である。

 WECのLMGT3クラスのドライバーラインアップは、各車両3種類のドライバーを採用しなくてはならない。プラチナもしくはゴールドとカテゴリーされるトップクラスのプロドライバーと、シルバーと呼ばれる大きな実績がないプロドライバー、そしてブロンズは30歳以降にレースを始めたレーシングドライバーを職業としていないアマチュアドライバーだ。

 これらの分類はFIAによって審査され、国際大会に出場するレーシングドライバーは全て色分けされている。プラチナとシルバーの違いと言っても、プロ同士である以上タイム差はおそらくコンマ5秒も変わらないであろう。しかし、ブロンズドライバーとなるとWECに出られる選手であっても、プロドライバーとのタイム差は秒単位で変わってくる。2020年のル・マン、2時間の前座レースにGT3車両で出場した時のブロンズドライバーの予選タイムは、私が3分58秒に対して2番手、3番手の選手は4分1秒、5番手以下は4分4秒以上となっていた。1周14キロもあり、一部一般道路を使う超高速サーキットとなれば、アマチュアのタイム差はかなり大きくなり、それ故、私のようなアマチュアドライバーが重用される仕組みを採用しているのが欧州レースなのだ。

 そして再三に渡るラブコールだけでなく、マクラーレンのモノ創りへの真剣さと個人的な好意も後押しし、私はル・マン1戦のみのスポット参戦を承諾した。

 ル・マンの本番前に私がマクラーレン720S LMGT3Evoをテストできるのはたった1回、スパ・フランコルシャンでの事前テストのみだった。そして結果から言えば、スパでのテストは雨になり、1度もドライコンディションでマクラーレンに乗ることがなく、ル・マンウィークに入ったのだった。

Hiroshi Hamaguchi

1976年生まれ。起業家として活動する傍ら32才でレースの世界へ。ポルシェ・カレラカップジャパン、スーパーGT、そしてGT3シリーズとアジアからヨーロッパへと活躍の場を広げ、2019年はヨーロッパのGT3最高峰レースでシリーズチャンピオンを獲得。FIA主催のレースでも世界一に輝く。投資とM&Aコンサルティング業務を行う濱口アセットマネジメント株式会社の代表取締役でもある。

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