バックミラーに目線を上げると、そこには居るはずもないクルマがミラーいっぱいに映り込み、真後ろまで迫っていた。
遥か遠くにいたはずなのだが、無音のまま、一瞬にしてその距離を詰めてきたそのクルマは、ロールス・ロイス スペクター。車種にファントムやレイス、ゴーストと静かに忍び寄る幽霊のネーミングをつけ、創業から己の存在を静粛性で追求してきたメーカーの、EVによる新車だ。
私が初めてロールス・ロイスを運転したのは、BMWが同社を買収し、新生ファントムをリリースした2003年だった。当然だが私はロールス・ロイスを買えるような身分ではなかったが、当時、父のコーンズ・モータースの担当セールスだった方が気を遣ってくれて、試乗車であるファントムを私に運転させてくれた。その価格と有り余るサイズに圧倒され、貴重な機会を堪能するには至らなかったが、スムーズで、シフトショックのなさやトルクのボリューム感はハッキリと覚えている。ジャーナリストの方々は、ファントムをシルキーという言葉をよく使っていたけれど、私は太い輪ゴムをイメージしていた。太い輪ゴムをグッと引っ張ると、戻るときに引っ張られる力は柔らかい。重い胴体をスルスルと前へと押し出すファントムはそれに似ていて、他のクルマにない感覚だった。
そのロールス・ロイスが初めてのBEV電気自動車であるスペクターを2023年に発表した。初めてファントムに乗った時から20年の歳月を経てもまだ、私が試乗することは早い気がしているのだが、スペクターのスーサイドドアを開け乗ることとなった。
片手で優しく操作しても回る大きな径のステアリングは、同社のアイデンティティでもある。高級サルーンセグメントではクラシックになりすぎたダッシュボードのインフォシステムは、スペクターでは最新版にアップデートされ、どの世代にも好意的な範囲の未来感でドライビングをサポートしている。ステアリングから始まり、エアコンアウトレット、エアコン操作ボタン、シフトノブ、ハザードの内装パーツは細部にわたり丁寧に作られているが、ミニマムなデザインであり、それぞれの主張が強くない。まるでイギリス人建築家デイヴィッド・チッパーフィールドの建築のように、歴史と進化と現代という相容れない要素を、端正に取り入れデザインされていると感じる。
一世紀もの永きにわたるロールス・ロイスの歴史で、最も売れたゴーストから内装に採用された、LEDで演出される夜空と流れ星のスターライトヘッドライナーは、後追いするメーカーもなくモダン・ロールスロイスの代表的な意匠となっている。そのアイコニックなLEDが、このスペクターではダッシュボードやドアパネルまで延伸された。この意匠を好むか好まざるかの答え次第で、その人と長く付き合えるかどうか深い部分で試されている。私には政治や宗教の話題と同じくらい触れられない、ナイーヴな話題だ。
凪いだ海へ出航するように、アクセルを踏み込みスルリと滑り出した第一印象は、目を瞑れば12気筒のロールス・ロイスと変わらない、というものだった。それは2014年にEV先駆けのテスラ・モデルSを試乗したときに、ファントムの6.7リッターV12気筒エンジンを思い出した記憶とも重なる。ハイパワーEVの感覚に近い、いや、ハイパワーEVが6.7L12気筒に近いというべきか。
数ブロック乗っても私の見解にブレはなかった。EVがロールス・ロイスっぽいと思っていた私にとって、動き出しからスペクターは期待を裏切らなかった。電池搭載位置の低重心がロールやピッチを抑える要因になっているため、対内燃機構におけるデメリットを感じる要素はなにも見つからなかった。プラットフォームに埋め込まれる形で置かれる電池容量からすれば、もっと出力もトルクも上げることは可能であったと想定できる。430Kwの出力と900Nmのトルクはジェントルで、車重とのパワーバランスはロールス・ロイスらしく、仰山な部分は削ぎ落とされている。あくまでゆっくりと抑えられた加速感が、EVなのに12気筒エンジンを感じさせるのだ。
ロールス・ロイスはその価格や購買層の華やかさによって忘れられがちだが、いつの時代も突き詰めてきたスリークさこそがロールス・ロイスたらしめている。パンテオングリルとマスコットのスピリット・オブ・エクスタシー以外の外装、内装は時代によって移り変わるだろう。しかし、その時々の株主や市場でも変えることが無かったのは、空を飛んでいるようなマジックカーペット・ライドの体験だ。CO2削減という地球規模の課題にEVで向かおうが、どの動力で向かおうが、ロールス・ロイスの存在意義である、静かで滑らかな走りが守られている限り、朝陽が昇りこの幽霊たちを消してしまう日は来ないであろう。
Hiroshi Hamaguchi