ローレンス・ストロール。カナダに生まれ、父の興したアパレルのインポータービジネスを引き継いだ。
カナダにおけるラルフローレンのインポーターだった彼らは、その権利を欧州全般へと拡大し、ファッション業界で力を付けていった。その後はトミー・ヒルフィガー、マイケル・コースなどのアパレル会社に投資、ブランドを再構し市場拡大をさせ、今や資産6,000億円。フェラーリ250GTOや250テスタロッサや330 P4など彼の代表的なコレクションのアイテムだが、カナダはケベックにあるモントトレブラントサーキットも所有していた程のクルマ好きだ。
クルマのコレクションだけではない。今やアストンマーティンの共同所有者でもあり、アストンマーティンF1チームのオーナーでもある。息子は同チームのF1ドライバー、ランス・ストロール。まさに、クルマ好きの極みとも言える存在だ。
彼はただお金持ちで、ほしい物を買っているわけではない。彼が金銭苦に陥っているアストンマーティン社を買収してからは、経営陣の一掃、メルセデスとの資本及び技術提携締結などを経て、同ブランドは大躍進を遂げ、今日もニューモデルをヒットさせ続けている。エア・アジアのオーナーでロータスF1チームを買収したトニー・フェルナンデスや、スパイカーF1を買収しフォースインディアを立ち上げたビジェイ・マリアのようなレース業界に、定期サイクルで現れ、また消えていったビリオネアと思いきや、その経営手腕で喧伝を吹き飛ばした。
F1チーム運営でもビジネス同様に、ストロールのサクセスストーリーは続いている。フォースインディアを買収しレーシングポイントと名前を変えた後、アストンマーティンブランドの買収とともに、F1チームもアストンマーティンと名前を変えた。多くの優秀なエンジニアや経営陣をリクルートし、セバスチャン・ヴェッテル、後にフェルナンド・アロンソをファーストドライバーとしてチームに呼び入れ、最下位争いをしていたチームは今やコンストラクターズ3位を争う競合チームとなった。
加えて、2021年シーズンからF1グランプリのセーフティーカーがアストンマーティンとなった。F1車両のタイヤが冷めないペースで先導するのは相当なスピードである。それゆえに視聴者へパフォーマンスのアピールも高く、強いセールス効果がある。しかし、私が過去所有していた数台のアストンと私の乗り方のミスマッチによって、F1の先導をしているそのクルマが映る画面を実感なく見つめるだけであった。この日までは。
ヴァンテージF1エディション。2021年シーズンからアストンマーティンF1チームと同様のブリティッシュ・レーシンググリーンで登場したセーフティーカーが、F1のバッジをつけて公道デビューを果たした。
通常モデルに比べると明らかに低い車高と大型リアウィング、このF1エディションとV12ヴァンテージSだけに許された大型21インチのホイールを装着している。攻撃的な車高と大型ホイールは、まさにF1を先導するに値するルックスだ。
メルセデスベンツAMG63シリーズから流用されたV8エンジンのフィーリングは、無限の肺活量を抱え、全身に酸素を行き渡らせパフォーマンスを爆発させる陸上選手マイケル・ジョンソンのように、空気の流れと共に出力は増して突き進む。このAMG63のエンジンフィールが好きだ。肉食動物の咆号のような腹に響くエグゾーストノートを聞くと、まだ大人になれない自分を再確認せずにはいられない。低速トルク重視のセッティングによる加速は、低速から中間にかけては気持ちいいが、高回転での伸びがもう少しあればと欲が出るのは、それだけ優れたクルマだからだろう。
フライバイワイヤではないステアリングロット直結の感覚は、それを重要視しているカスタマーにとって喜びを隠せない。サスペンションの伸び縮みは少ないのに、極端な突き上げもなく障害物を走り抜けていく。長いGがかかるようなシチュエーションでは、足回りの硬さや縮み側の短さが利点となり、車重とサスペンションのセッティングのバランスは運動能力の高さを再確認させてくれる。
AMGの8速ミッションは最新の技術というわけでは無い。トルコンATと基本構造を共有し、トルクコンバーターの代わりに湿式多板クラッチを使用することで、シフトフィールドはデュアルクラッチのシーケンシャルミッションであるかのような感覚を与える。
インテリアのインフォシステムは2世代前のメルセデスのものだが、戦闘機のようなスイッチ類はドライバー向きにセットされており、D型ステアリングによる相互効果でコクピットの演出は申し分なく、このクルマは街乗りから高速道路まで、オールマイティに秀でたバランスがあった。
クルマを降りても、もしもマニュアルがあったら? 限界値までコントロールできるのでは? と要求と想像が止まらず、私のそれまでのアストンマーティンの全てを覆していた。
この仕事がローレンス・ストロールなのか。彼の不敵な笑みとF1という新しい冠をかぶって現れたこのヴァンテージF1エディションは、このメーカーの転生というものを決める1台だった。
Hiroshi Hamaguchi