伝説の女性ライダー 堀ひろ子を知る

革ツナギの美しい背中に導かれ、彼女が生きた70年代から80年代を彷徨っていた。

凛とした真っすぐな眼差し、噛みしめる唇、耐え切れず溢れ出た涙。それらを全て抱え込んで、バイクを走らせる彼女の姿は今でも私たちを魅了する。もう一度ここに堀ひろ子が残した軌跡を記しておきたい。

協力・三栄書房、腰山峰子

堀ひろ子/Hiroko Hori (1949年-1985年)

1975年に世界一周ツーリングを敢行。1976~77年にMFJ公認レースに特例選手として出場、女性不可の規約を解除させる。1980年には女性ペアによる公式レース参戦を実現。1982年にサハラ砂漠縦断に成功した。享年36歳。

2010年4〜9月号 文・まるも亜希子

36歳の出会い
2010年4月号 Vol.89 連載第1回

 その人の名前を知ったのは、ほんの数ヵ月前のことだった。ベイブリッジにほど近いカフェテリアで、何か別の話題の合間にふと、神尾編集長(当時)の口からこぼれ出た

 70年代から80年代に活躍した、「すごい美人の女性オートバイライダー」だと言う。ほぉと思ったが、正直なところ、その言葉だけでは私の心は反応しなかった。日本のモータリゼーションが急速な発展期にあった当時、そのような女性はどんどん増えていたのだろうし、そもそも「美人」とつく話には注意が必要だ。たいそうなことをやったように伝えられていても、取材してみると「男か金」がすべてお膳立てを整え、本人はその上でニッコリ笑って写真に収まっているだけ、というケースがいくらでもあった。落胆した経験は一度や二度ではない。

 ところが次の話は、私の心を、すこし開かせた。

 ’75年に大型バイクでの世界一周ツーリングを完走し、日本のバイクレースの規則書(MFJ)に書かれていた「参加は健康な男子に限る」という一文を変えさせ、女性で初めて参戦したのだという。それにとどまらず、女性だけのバイクレースの主催までしている。

80年代前半の「ひろこの」カタログより

 私の好奇心が、この人のことをもっと知りたいと、うずきはじめていた。しかし、その反面、目の前に大きな海が広がり、そこへ向けて漕ぎ出そうかどうか躊躇するような、どこか心もとない気持ちを感じてもいた。いま思えばそれは、私の人生に大きな衝撃を与えるであろうという、かすかな予感だった。

 帰宅するとすぐ、ノートに書きとめた「堀ひろ子」という名前を、PCに打ち込んだ。あらすじを読んだ映画のオープニングを待つように、鼓動が速打ちしている。しかし、何かがおかしい。いくらやっても、期待したほどの情報は出てこない。あらすじより先のストーリーが、なかなか始まらないのである。たくさんの著書があることはわかったが、今はどれも新刊では手に入らない。どこか釈然としない思いが募った。結局、私がここで得た情報といえば、’82年にサハラ砂漠縦断ツーリングを達成していること。「ひろこの」というバイクショップを経営していたこと。そして、もうひとつ。彼女が生涯を閉じたのは’85年4月30日で、奇しくも今の私と同じ、36歳であったということだ。

 それからしばらくの間、私は彼女のことを頭から追いやった。このまま忘れてしまおうかと思った。いや、本当は、怖かったのだ。これ以上、彼女のことを知ってしまうと、もう二度と引き返せない気がした。いまの、ささやかだけれど充実して穏やかな日々に、大きな波がたつことを恐れていた。ただ、その一方で、生前の彼女を知る人にそれとなく印象を聞き出したり、古書となった著書を探して取り寄せたりする、裏腹の自分を止めることはできなかった。彼女のイメージは日に日に鮮やかになり、著書は机に積み上げられていく。ついに私は意を決し、その中の1冊である世界一周ツーリング体験記、『オートバイからVサイン』をバッグにしのばせ、クルマを走らせた。

『オートバイからVサイン』(CBSソニー出版)

 独りでいるのが好きなのに寂しがり屋で、大勢の中に独りでいるのが苦手な私は、クルマの小さな空間がもっとも心地よい。だからよく行くカフェもこぢんまりとしていて、あまりグループで騒ぐ客のいない、落ち着いた店だ。昭和通りの流れが見えるテーブルに座り、コーヒーをひと口ふくんで、ページを開いた。

 活字からハッと顔を上げると、コーヒーはすっかり冷め、陽が傾いていた。時間に追われるだけの生活をしている私が、時間を忘れている。そのことに驚いた。意気投合、という言葉は、こんな場面にふさわしいだろうか。実を言えば、私は友だちが少ない。誰とでも仲良くなれるが、なかなか深く心を許すことができない。それなのに、そのとき私は、「友だちを見つけた」と思った。うれしかった。こうして私の「堀ひろ子物語」は、ようやくオープニングを迎えた。

 親子ほども生きた時代が違うというのに、何度も何度も、彼女の言葉に深くうなずいている自分がいた。モノクロ写真の美しい横顔を、息を詰めて見つめてしまう。

 そこには、豊かな黒髪に隠して誰にも見せなかったであろう、前を向こうと歯を食いしばる彼女が、確かにいた。

哀しみがくれた覚悟
2010年6月号 Vol.91 連載第2回

 桜が若葉に変わる頃、部屋に積み上げた古いバイク雑誌は、ベッドの高さを越えていた。全国の古本屋から入手したもので、多くは’75年から’85年の日付だ。そこには、堀ひろ子が残した数々のレポートがある。そして、日本のオートバイ黄金期が広がっている。私は素潜りをするようにその世界に浸っては、時代の潮流を感じ、彼女が起こした波紋をたどった。

 どうしても知りたいことが、ひとつあった。真実を聞くことが不可能な今となっては、彼女があちこちに沈めたパズルのピースを拾い集め、デコボコでも、うっすらとでも、形を再現していくしかない。

 堀ひろ子はなぜ、こんなにもバイクを愛したのか。

 それが、私がどうしても知りたいことだ。「単純に面白さにハマったのだろう」。いや、「女性が少ない世界だったから、重宝されて居心地が良かったのでは」。「時代が彼女を求めていたんだよ」。さまざまな意見がある。どれも当たっているのだと思う。でも決して、それがすべてではないとも思う。もっと、彼女の奥深くにたぎるような何か。普段は彼女自身すら忘れていて、他人にも漏れず、でもふとした時に噴出するような何かが、必ずあると私は直感していた。

 ひとつめのピースは、彼女が最初に成し遂げた偉業、世界一周ツーリングの記録から拾いあげた。これは、’75年5月にパリをスタートし、パートナーの表ひろみさんと共にホンダ『CB750Four』2台を駆り、世界25ヵ国・約4万㎞を走破したチャレンジだ。

 荷物を極限まで減らし、食費と宿泊費を切り詰めた彼女たちの旅だが、異国の人や文化に触れた新鮮な驚き、なにより未知の世界を走れる歓びと興奮が、体験記である著書『オートバイからVサイン』にあふれている。ところどころに、彼女の可愛らしい本音やユーモアがチラリと見えて、親しみをおぼえたりもする。たとえばある日の日記では、「オスロを出発してから4日目には北極圏に入り、6日目にはスキボトンに到着して記念撮影。抱き合って喜びたいところをグッとこらえてーだって女同士なんですものー二人で感激をかみしめた」(出典・『オートバイからVサイン』)という具合だ。

 ルートは西欧から北欧、東欧からアフリカ大陸をかじって西欧へ戻り、北米大陸をまわってゴールとなっている。こと細かに綴られる中で、なんとなく違和感をおぼえた部分が、ひとつだけあった。それは彼女が、パリへと再び戻る日の心境を記したものだ。

『サハラとわたしとオートバイ』(大和書房)
『オートバイのある風景』(二見書房)

 「ヨーロッパ最後の夜にふさわしいモン・サンミッシェルに着いた。(中略)空と海は闇の中に混じり合い、今まで走って来たことも、ここまでの長い道程もひと時の夢のようで、空と海に溶けてしまったような錯覚すら感じる。ここへ来るために、ひたすら走ったのかもしれない。(中略)地球の中で、自分を受け入れてくれる大地を探していたのかもしれない」。(出典・同じ)

 4ヵ月もの長旅の果てに、あの美しい景色を前にして感傷的になったのだと思えば、それまでかもしれない。でもまだ北米大陸の旅が残っているのに、ここが本当のゴールかのような微かな心の動きが、この言葉に見え隠れするような気がした。

 もつれた糸のような私の違和感は、思わぬところでほどけ始めた。’82年発行の著書に、友人たちへの素直な気持ちを綴ったエッセイがある。その一節で、タイトルは「私のなかの彼へ…」。

 「あれから、もうすでに六年がたってしまいました。(中略)私はあのときから、ずっと待ちつづけていたのです。オートバイによる長い旅が終わればあなたに会える、と。五ヵ月の旅が終わればいっしょになれる、と。(中略)そんなある日、あなたがパリに走りにやってくるという知らせをスペインのホテルで聞いたときは、思わずとびあがり、神様もまんざら捨てたものではないな、なかなかシャレたことをなさるもんだと思ったものです。(中略)そして長い旅を終えて、パリに帰ってきたのでしたのに。私の足が少し遅かったからでしょうか。あなたは私を待ちきれずに、いそいそと遠い宇宙の星へと旅立ってしまったのです。なんのメッセージもなく無断で」。(出典・『オートバイのある風景』)

 ’75年9月10日の朝、NHKのニュースは、フランスでの日本人レーサーの訃報を伝えたという。

 彼女がパリに着いたのは、予定より1週間ほど遅れた9月16日の夕刻。もう少しでつかめたはずのゴールは、何の前触れもなく消え、二度とたどり着くことはできなくなった。彼女はこのとき初めて、時は無限ではないと知った、と書いている。もっていきようのない怒りと、とんでもない底なしの寂しさが襲いかかってきた、とも。

 しかし彼女はそれをすべて、沈黙の中に埋めた。6年後に書かれたこのエッセイのほかに、彼女の心を知る術はない。だからこそ、私はその哀しみの奥深さを痛いほど感じとる。

 かつて、私はこの世で最も大切な人を失い、家を失い、有り金をはたいて借りたアパートで独り、途方もない喪失感と闘っていた。仕事場や、家族や友人の前では笑っていたが、独りになるとアルコールだけが頼みの綱だった。毎夜、涙も出ないほどに泣いた。それが半年も続いた頃、気が付いたのだった。本物の哀しみを抱えたとき、人は、それをふり払うことをあきらめ、心に埋めたまま生きていく覚悟を決める。

 彼女が北米大陸を走り抜き、世界一周ツーリングから帰国したのは、11月26日のことだった。そして私はここからが、女性ライダー・堀ひろ子の本当のスタートだったのだと信じる。

堀ひろ子という友人
9月号 Vol.94 連載第5回

 見たこともない斬新なバイクが、月刊誌『モト・ライダー』のグラビアを飾ったのは、’77年4月のことだった。名前はヤマハXT-S500ロード・ボンバーと言い、写真に添えられた「爆弾」の飾り文字が鮮烈だ。イエローに塗装された外装はとてもシンプルだが、横幅の狭さがまず目を惹く。エンジンは2気筒や4気筒が常識だった中、突如現れた異端児のごとき500㏄の単気筒である。この記事は読者の大きな反響を呼び、ヤマハの販売店にまで問い合わせが殺到したという。

 しかし、記事内で「発売日」と書かれたのは4月1日。つまりヤマハからロード・ボンバーが発売される事実はなく、読者はまんまと「エイプリルフール」に引っかかって「ヤラレたー」と冗談で終わる、というシナリオだったのである。

 『モト・ライダー』編集部ではサプライズ記事を載せる一方で、ロード・ボンバーのナンバー登録ができないものか、と考えていた。そう教えてくれたのは、当時の『モト・ライダー』編集者であり、このロード・ボンバー企画に携わっていたという、モーターサイクルジャーナリストの山田 純さんだ。

 「当時の編集長だった鈴木脩己さん、エンジニアの島 英彦さんが中心となり、自分たちが考える、理想のバイクを造ろうとしたんだ。その頃のロードレーサーの主流はマルチエンジン(4気筒)といって、100馬力くらいあって速いんだけど、重くて大きくて運動性能はあまり良くなかった。でも単気筒なら、トップスピードは低くてもハンドリングが良くて、日本のワインディングを走るにはすごく面白いだろうな、と」。

 しかしナンバー登録への道は険しく、メーカーでなければ無理だと判断した編集部は、ロード・ボンバーをあらゆるテストに使おうと企画を練った。

 通称「8耐」こと鈴鹿8時間耐久ロードレースは、今なお真夏のビッグイベントとしてライダーたちを熱くさせている。’78年に開催された第1回のリザルトを見ると、堂々8位に山田 純/石井康夫ペアの名前が残っていた。これこそが、ロード・ボンバーで見せた快挙だった。しかし物語のはじまりは、この前年にさかのぼる。今では8耐の前身と言われている、’77年夏の鈴鹿6時間耐久レースがその舞台だ。ピットでひときわ注目を集めていたのは、ついに大観衆の前でレースデビューを果たすロード・ボンバーと、大会唯一の女性ライダー・堀ひろ子の姿だった。

モトライダー誌の表紙を飾る堀ひろ子。専門誌でありながら、バイクが全く出てないのは当時としては斬新。左は世界一周をリポートした本人の著書より。

 「6耐のライダーには、ずっとテストを担当してきた僕(山田 純)と、そのペアにひろ子が推薦されたんだけど、まだ本格的なレース経験がなかったひろ子に、製作者の島さんが条件を付けたんだよ。上り坂で押しがけができたら、出てもいいぞと」。山田さんは、出場の経緯をそうふり返る。バイク乗りの知人にその話をすると、「そんなの男でもまず不可能に近いね。押しがけって普通、平坦かゆるい下り坂でやるものだよ。たぶん、条件出した方もどうせ無理だろうと思ってたんじゃない?」

 だとしたら、出された条件に彼女の闘志が燃えあがる様を見たような気がした。彼女は、山田さんがロード・ボンバーのテストをする筑波などに同行し、ひたすら押しがけの練習に励む。コツをつかむのは早かったが、やはり完全にマスターするには相当な時間を費やしたという。そして、レースに向けての走り込みも重ねていった。初めてロード・ボンバーに跨がった彼女は、「こんなに細くていいの?」と車体のコンパクトさに驚き、走り終えた第一声は「とても素直で乗りやすい」というものだった。タイムは決して遅くはなかったし、とても丁寧で扱いが上手かったと、山田さんは証言する。

 「どういうふうに走るのか、あのコーナーは何速か、とか熱心に聞いてたね。美人だからチヤホヤされてチャラチャラしてるように思われがちだけど、実はコツコツと真面目にやる子だった。行き当たりばったりじゃなくて、しっかりと準備をするタイプだったよ」。

モトライダー誌の企画から誕生したヤマハXT-Sロード・ボンバーは、奇才、島 英彦氏が考案した。SR誕生のきっかけになったバイクだと言われている。

 そして迎えた決勝は、真夏の炎天下でスタートした。当時の鈴鹿サーキットを写真で見ると、私はそこが鈴鹿だとはとても信じられない。コースサイドは草ボウボウで、ただ金網が観客席とを隔てるのみ。

 「そうそう、ピットの裏だって、今みたいに冷房付きのボックスなんてないんだ。ただの駐車場」と山田さんも笑う。そこに子供用のビニールプールを置いて、走り終えたライダーはパンツ1枚でザブンと浸かり、涼をとるのが当たり前だった。ツナギもヘルメットも、通気性のいい夏用などないし、走行中のドリンクもないからピットインするまで何も飲めず、時に脱水症状を起こす。

写真・原 富治雄

 「もう、男でも参っちゃうほどなのに、ひろ子はまったくツライって顔を見せなかったな。スタミナも、精神的な強さも備わっていたんだろうね」。

 あ、そうだ、とそこで山田さんが思い出したのは、彼女が発案したというヘルメットの汗とり方法だ。

 「純ちゃん、コレがいいよってひろ子が持ってきたのが、ほら、女性が使うナプキン。あれを内側に貼っておくんだ。どのメーカーが吸水性がいいとか言ってたっけな」。

 何もかもが、男とか女とかを超えている。そこにはただ、一緒に闘う仲間という意識があり、彼女は彼女らしいやり方で、マイナスを補い埋めていく。紅一点のサーキットでもそれが自然とできてしまう彼女が、私は好きだ。

 レースはほぼノントラブルで周回を重ね、彼女は押しがけを一発で決めるどころか、ロード・ボンバーを安定して乗りこなし、期待に応えた。総合18位は予想以上の立派な成績だと、『モト・ライダー』誌面は讃えている。そしてこの経験は、彼女が秘めていた可能性のつぼみを開かせる、恵みの水となったのだった。

 華奢な身体がフレームのカーブに添い、細く伸びた脚は美しいL字を描く。70年代後半のバイク誌で披露された堀ひろ子のライディング姿はどれも、数十年後に初めて見た私でも、強烈に惹きつけられるほどカッコいい。だから当時、彼女に憧れた少年少女たちは大勢いただろうし、その気持ちもよくわかる。

 今年4月、私はかつてその少女のひとりだったという女性に会うため、兵庫県尼崎市を訪ねていた。立派な邸宅の通用口からのぞいた笑顔は、少女時代の写真そのままに人なつこい。急速に、それまでの緊張がとけていくのを感じ、案内された応接間でソファに座ったそばから、不思議と会話がポンポンはずむ。そして女性は私に、すこし陽に焼けたカバーにくるまれたヘルメットを差し出した。その手つきから、女性がずっとずっと、大切に保管してきたものだと伝わってくる。

 カバーをめくった時、私の手は思わず止まった。この赤と白のデザインは、目に焼きついている。堀ひろ子本人が愛用していた、あのヘルメットそのものだ。まさか、この手で本物に触れる日がくるなんて、と呆然とする私に、女性は教えてくれた。「私のヘルメットがなくなってしまって困ってたら、『峰子ちゃん、これ使いな』って、堀さんがくれたんですよ」。

峰子さんが今も大事に保管している堀ひろ子が愛用したヘルメットとグローブ。

 そう、この女性とは、堀ひろ子が耐久レースやサハラ縦断チャレンジでパートナーとし、絶大なる信頼を寄せた女性ライダー、今里(旧姓)峰子さんなのである。

 「小学生の頃、本気でF1ドライバーになりたかったんです。幼いなりに、どうやったらなれるかなと考えて、当時は二輪からステップアップしたレーサーが多かったもので、まずは二輪だわって」。

 のっけから私は、峰子さんのこの言葉に吹き出してしまった。なんという想像力と計画性だろう。もしかすると、堀ひろ子より直球でいく人なのかもしれない。

 「高校は厳しい女子校でね、夏休みの禁止事項に、『オートバイの後ろに乗せてもらってはいけない』と書いてあったんです。それじゃ、前に乗るならOKだろうと思って、乗ってしまいました」。

 もう私は初対面だということも忘れ、笑い転げる。直球だけじゃない、変化球も投げてくる峰子さんは、17歳の時に初めてバイクのレースに出た。そしてますますのめり込み、「パウダーパフ」に出るため鈴鹿サーキットへ行ったのが、18歳の時だという。「パウダーパフ」は、ロード・ボンバーでの6耐ののちに、堀ひろ子がプロジェクトを進めて実現した、日本初の女性だけのロードレースである。’78年の日本GPの前座として開催され、彼女がスポンサー集めに奔走したおかげで、参加する女性はヘルメットとツナギさえ持参すれば、マシンも費用も主催者持ちという、驚くほどの高待遇だった。

 パドックで初めて彼女(堀ひろ子)に会った峰子さんは、事務的な言葉を交わしながらも、「本物だ!」と大興奮したという。

 「ファンだからってサインをもらいに行った男の子が、堀さんの前だと喋れなくなるんです。それくらい、オーラがすごかったですね」。年齢にして11歳下の峰子さんにとって、彼女は完全なスターだった。ところがしばらくして、そんな憧れのスターから、一緒に鈴鹿4時間耐久レースに出ないかとの誘いがきたことから、峰子さんの人生は大きく舵をきることになる。

写真・原 富治雄

写真・原 富治雄

’81年、前年リタイヤした復讐戦となる2回目の4時間耐久レースを無事完走。チェッカーを受けた直後のクールダウンラップの様子。

同じく’81年のスタートシーン。少しでも早く加速させようと堀ひろ子がバイクを押している。

上の黄色いバイクと下のモノクロ写真は’80年。(白赤は’81年)このページのバイクは全てレース仕様に改造された2気筒のスズキGSX400Eとなる。

堀ひろ子写真集 RIDE ON LIFE(CBSソニー出版 1983年発行)より。初年度の鈴鹿4耐の挑戦は、スタート早々、他車の撒いたオイルが原因で、堀ひろ子が転倒、マシンが炎上するという衝撃的なリタイアだった。

 なぜ、彼女は峰子さんを選んだのか。その真意がなんとなく、私にはわかる。それは彼女が、パウダーパフをたった2回でやめた理由を、こう書いていることから感じとった。「これだけのおぜん立てをしなければ集まらないようなレースなら、つづけても無意味だと思ったからだ。レースは各人にヤル気がなければできるものではないし、安易な気持ちで参加することは、とても危険だ。そこでは男も女もないはず。女だからといっていつまでもぬるま湯につかり、そういう環境が保証されなければつづけることができないのならやめるべきだ、と考えた」(出典・『オートバイのある風景』)。峰子さんは、目の前にぬるま湯があったのに、自分から川に飛び込むような人である。そして自身は「ミーハー」と呼ぶが、それを楽しむ好奇心にあふれている。彼女はそこを見抜き、峰子さんならと確信したのだろう。

 こうして’80年の鈴鹿4時間耐久レースで、日本初の女性ペアチームが誕生した。マシンはスズキ『GSX400E』で、予選ではクラス1位をマークして快調そのものだ。メディアも観客も、興味津々で決勝の行方に注目している。しかし峰子さんは結局、決勝を1mたりとも走っていない。堀ひろ子がスタートして2周目に、整備不良のマシンがコース上にまいたオイルが原因で転倒し、ガソリンに引火してマシンが全焼してしまったのである。あっという間の、悪夢のようなリタイヤ劇だ。

 でもこの話を聞いた時、「堀ひろ子は本物のスターだな」と私は思った。ここでラクラク優勝するような人は、天才かもしれないがスターではない。最初にどん底に落ちながら、最後にはプレッシャーを乗り越えてやり遂げる。そんな人がきっと、のちのち語り継がれるドラマを生むのだと思う。

 翌年の’81年の鈴鹿4耐には、やっぱり彼女と峰子さんの姿があった。そして今度こそ、ふたりは1年越しでチェッカーフラッグを通過し、誰よりも大きな喜びを分かちあったのだった。峰子さんはこの時も、「堀ひろ子と同じツナギに同じヘルメットなのに、堀さんカッコイイなぁ」と、半分はまだスターを見つめる心境だったというが、彼女は着実に峰子さんへの信頼を深め、心を許すようになっていた。

 「母はずっと、私がバイクに乗ることを反対していたのに、堀さんと会ったら意気投合して、まったく反対しなくなったんですよ」と峰子さんは笑う。彼女は、関西で仕事の時などには必ず、今里家に泊まるほどだった。そんな時は夜更けまで、バイクや仕事や恋愛や、いろんなことを語り合ったという。「堀さんは本当は、すっごく可愛い人なんです。甘え上手で、怖がりで、泣き虫で。お料理はからきしダメだけど、お裁縫がとても上手。そして、すごく義理堅いところがある人でした」。

 ふたりの友情はやがて、彼女がいつも公言していた壮大な夢へとつながっていく。「いつか、サハラ砂漠を駆けてみたい」。そのパートナーに選んだのも、やっぱり峰子さんだった。「アフリカ? うん、いいよ。行ってみたかったんだ」と峰子さんはあっさりOKしたらしい。そして’82年4月、2台のスズキ『DR500』とサポートカーのジムニー。オフロードウェア姿の女ふたりに、短パン姿のジムニードライバーふたりは、アフリカ大陸の北の端、アルジェという街に降り立った。そこからサハラ砂漠を南へ縦断し、アビジャンを目指すチャレンジへと踏み出した。それは気温60度の中、彼女が恋こがれた砂と夕陽が、走っても走ってもまとわりつく日々の始まりでもあった。

 人生に無気力な人というのは、日本がぐんぐんと上り調子だった’80年代にも、やはりいたのだろうか。サハラ砂漠縦断を綴った彼女の著書には、冒頭にこんな一文がある。

 「どうしてサハラ砂漠へ行く気になったんですかと、よく聞かれる。いつも何かをすると、『なぜ?』がつきまとうのは、どうしてだろう?(中略)私は反対に皆に問いたい。なぜ、そんなに何でも理由づけしたがるんですか?と。人間が何かをする時、別に理由がなくてもいいではないか。好きだからやる、行きたいから行く、ただそれだけで、心の動きに忠実に行動する人間がいたって、不思議はない。」(出典・『サハラとわたしとオートバイ』)。

 21世紀に入った今、私はもうひとつ、強く感じていることがある。

 やりたいことや、好きなことがあるのに、なぜ言い訳を並べ立てるのですか? 女だから、子供がいるから、もう若くないから、などと言うけれど、それはただ、目を逸らしてあきらめて、逃げているだけだ。自ら壁をつくり穴を掘って、生き埋めになっているのと同じことだ。

 堀ひろ子は、バイクという男社会に突進していった特攻隊長だったかもしれないが、その生き方をなぞってみると、本当はとても柔軟な人だったのだとわかる。正面からぶつかってみてダメなら、今度は横からいってみる。そのしなやかさが、彼女の表面をふわりと覆う。でも芯の部分はとても硬く、とにかく目標に届くまではなかなか曲げない。時には、曲げないことでぶつかったり、痛みをともなうこともあったはずだが、それを怖がらないことが、本当の強さなのだろう。変化を受け入れることも、楽しむことも、やってみればそんなに大したことじゃないのだと、彼女が教えてくれている気がする。

 そして何より、彼女がいちばん求めたのは、実は結果ではなかった。夢に向かってがむしゃらに突進していく。その一瞬一秒に、なによりも輝いていたのが堀ひろ子だった。身体中に、絶え間なく沸き上がる情熱を抱えて生きた、美しい人。彼女は今、私たちが失った何かを届けに来てくれたんだ。そう確信した時に、私の中の堀ひろ子は、大切な大切な友人になった。

堀ひろ子の物語を彩ったバイクたち

HONDA CB750FOUR

26歳のときに敢行した世界一周ツーリングに使用したのは、“ナナハン”の代名詞といえるCB750。試作車に跨った本田宗一郎が「こんなバケモノ、誰が乗るんだ!」と言った有名なエピソードが残る。

YAMAHA XT500

28歳の夏、鈴鹿6時間耐久レースに参戦したロードボンバー(P35)のベース車両は、オフロード車のXT500だった。当時、古い欧州製を除くとビッグシングルのオンロードバイクは存在しなかった。

SUZUKI GSX400E

31歳と32歳の夏、400cc以下で行われる鈴鹿4時間耐久レースに今里峰子と組んでGSX400Eで参戦した。4サイクルの神様と謳われるポップヨシムラに「400は2気筒で充分」と言わしめた名車。

SUZUKI DR500

33歳の春、今里峰子とサハラ砂漠を縦断する際に選んだのは、パリ・ダカールラリーで実績のあるDR500だった。後年ファラオラリーを制覇し、「砂漠の怪鳥」と呼ばれたDR-Zの始祖といえる存在。
【参考文献】
『オートバイからVサイン』堀ひろ子(CBS・ソニー出版)
『オートバイのある風景』堀ひろ子(二見書房)

2012年7月号 文・若林葉子 堀ひろ子からの贈り物 Pay it forward

若いときに人は誰かから何かを与えられても、それを受け止めることで精一杯になる。そして与えてくれた人に直接恩返しすることは難しい。

だから人は年齢を重ねると、次の世代に自分の受け取ったものを手渡そうとするのかもしれない。

写真・原 富治雄

 今から30年以上も前、1981年の鈴鹿4時間耐久レースに、チェッカーフラッグを受けて喜ぶ2人の女性の姿があった。伝説のライダー、堀ひろ子と、パートナーの今里(現・腰山)峰子である。日本初の女性ペアチームとして注目されていた。

 日本の女性レーシングライダーの歴史は堀ひろ子から始まった、と言って間違いないだろう。もちろんバイクに乗る女性はそれまでにもいたのだが、男性一色だったレースの世界で、“女性ライダー”という存在を認めさせたのは堀ひろ子その人であった。実際、1976年まで日本のバイクレースを統括するMFJの規則書には「参加は健康な男子に限る」という文言が明記されていたのである。その1文を自らの実力で規則書から削除させたのが堀ひろ子だということを、今、どのくらいの女性ライダーが知っているだろうか。

 女性ライダーも、男性ライダーに伍して闘える。それを証明して見せた以上に、日本のバイク史において重要だと私が考えるのは、堀ひろ子が「バイクはカッコイイ」ことを多くの人々の心に植え付けたことだ。

 現役時代の彼女を見たことのない私だが、写真だけでも十分にそのかっこよさは伝わってくる。バイクにまたがる堀ひろ子の美しさ。バイクで走る堀ひろ子のしなやかさ、そして力強さ。彼女とともにあるバイクの輝き。男女を問わず、日本中のライダーが堀ひろ子に憧れ、バイクに魅せられた。

 「女性ペアチームの監督として、今年の4耐に出ることになりました!」

 腰山峰子さんからそんな電話をもらったのは今年の4月のことだ。峰子さんから送られてきた企画書を開くと、そこには「2012年パウダーパフ・レーシング 鈴鹿4時間耐久ロードレース参戦計画書」とあった。パウダーパフ―チーム名にこの名を冠していることに、私は峰子さんの並々ならぬ決意を感じた。

 〝パウダーパフ〟とは、堀ひろ子が1978年に立ち上げた女性だけのバイクレースの名である。この年の日本グランプリの前座として開催され、ヘルメットとツナギさえあれば、バイクは主催者が用意してくれて、費用も負担してくれるという女性ライダーにとっては夢のようなレースだった。峰子さんがこの年、鈴鹿サーキットで開催されたパウダーパフに参加したのは18歳の時。このときパドックで簡単な言葉を交わしたのが、実際の堀ひろ子と会った最初だった。

 しかし女性だけのレースを主催するためにあれだけ奔走したのに、わずか2年で堀ひろ子がパウダーパフを解散したことは周囲を驚かせた。

 その理由は後に堀ひろ子自身が著書『オートバイのある風景』で語っている。以前本誌でも紹介した(vol.94「堀ひろ子という友人」(執筆・まるも亜希子))が、あえてもう一度抜粋したい。

 「これだけのおぜん立てをしなければ集まらないようなレースなら、つづけても無意味だと思ったからだ。レースは各人にヤル気がなければできるものではないし、安易な気持ちで参加することは、とても危険だ。そこでは男も女もないはず。女だからといっていつまでもぬるま湯につかり、そういう環境が保証されなければつづけることができないのならやめるべきだ、と考えた」

 重い言葉であり、レースをするのでなくても、女性なら誰でも心に刻むべき言葉だと思う。

 話が逸れてしまったが、そういう事情もあり、パウダーパフという名は、長きにわたって、堀ひろ子とともに伝説として語られるばかりだったのだ。

 だから、自分に対しても他人に対しても厳しく、妥協を許さない堀ひろ子が、4耐のパートナーとして選び、後には共にバイクでサハラ砂漠8,000㎞を縦断した峰子さん以外に、パウダーパフを名乗れる人はいない。そしてパウダーパフを名乗ることの重さを誰より知っているのもまた峰子さんなのである。

 「結婚したその年にひろ子さんが亡くなって、それ以来あまり思い出すことはなかったんです、なんででしょうね。家の商売のこともあったし、子供も生まれて、他のことを考える余裕もなかったし、それに思い出すとやっぱり辛くなるから、無意識のうちに封印してたのかも知れませんね」。ライダーであった腰山武史さんと結婚してから、峰子さんはあんなにも打ち込んでいたバイクからきっぱりと距離を置いた。距離を置くというはっきりとした意志があったわけではなく、当たり前のように妻と母親であることに没頭した。子どもを育て、子供と遊ぶことがバイクに取って代わった。PTAも喜んで引き受け、ボーイスカウトのリーダーにもなり、消防自動車が大好きだった長男を連れて、カナダにも行った。宿も決めずに旅をして、町ごとにひとつある消防署を訪ね、大喜びする長男と一緒に写真を撮った。

 この話を聞いたとき、私は「何という行動力」と半ばあきれ、半ば驚いた。まだ小さな子どもを連れて、何の当てもなく、ただ消防署を訪ねて歩くなどという旅はなかなかできるものではない。峰子さんと言えば、これまで堀ひろ子のパートナーとしてだけ記憶され、その明るく、屈託のない人柄に隠れてなかなか気づかれないが、もともとリーダーの資質のある人なのだ。でも同時に、人に合わせることができ、誰かを立てて、自分を引くこともできる。

 サハラ縦断のとき、旅の初めから堀ひろ子は大きなことをやり遂げなければいけないプレッシャーに苛まれていた。ライダー2人とサポートカー部隊2人。4人の間にはぴりぴりとした空気が流れていた。当時、サポートカーを運転していた菅原義正は言う。「峰子ちゃんは、随分我慢していたんだよ」と。今年の5月、峰子さんにお会いしたとき、「確かに、あのとき、私は我慢してたんですね。でもひろ子さんの夢の大きさも、賭ける思いも知っていたから、ここで私が何か言ったらすべてが台無しになると思いました」と、初めて当時のことを振り返った。

 努力家で完璧主義。自分にも他人にも厳しい堀ひろ子は、ときとして人とぶつかった。堀ひろ子でなくとも、オンナどうしの関係はやっかいだ。同性だけに相手にも厳しくなり、自尊心と自尊心がぶつかりあうこともしばしば。しかし峰子さんは、決して自分が前に出ることはなかった。堀ひろ子は多分、思わず峰子さんにあたることがあっても、常に変わらぬ峰子さんの尊敬と愛情に接して、時に自己嫌悪に陥り、そのたび峰子さんに感謝したことだろうと想像する。一方、峰子さんは「ひろ子さんは本当にかわいらしい人だったんですよ」と言う。甘えん坊で寂しがり屋。裁縫が上手で、峰子さんの結婚式には手縫いのウェディングドレスで祝ってくれた。

 オンナどうしが理想的な関係でいるのは難しいものだが、堀ひろ子と峰子さんは、互いの尊敬と愛情、努力と誠実さで、関係を育てた。最期のその時まで。

砂漠から抜け出して舗装路を走る峰子さんと堀ひろ子。右はダカールの鉄人と呼ばれる菅原義正が運転するジムニーのサポートカー。道路上に陽炎が揺れ、湖に見えたが蜃気楼だった。

 そして、峰子さんがオートバイにリターンしたのは2004年。ご主人が買ったカワサキ・ZRX1100が切っ掛けだった。「何の気なしに」乗せてもらったら、20年のブランクなど忘れるくらいごく普通に乗れた。「なんでこんな楽しいもの、忘れてたんやろう」。

 子どもたちからも手が離れ、再びバイクに没頭していく。「それまでは本当に、ひろ子さんのことを思い出すことはほとんどなかったんですけど、リターンしてからはバイクに乗るたび、ひろ子さんのことを思い出します」。それが辛くもあり、うれしくもある。リターンした年から今まで、欠かさず堀ひろ子の墓参りにも出掛けている。峰子さんは今、バイクに乗りながら、堀ひろ子と過ごした日々をもう一度紡ぎなおしているのかもしれない。

 そんな峰子さんが2人の女性ライダーに出会ったのは、走行会に、レースにと足しげく通う岡山国際サーキットだった。何度も顔を合わせるうちに、2人は峰子さんを「かあちゃん」と呼ぶようになる。4耐出場を決めたのは若い2人。迷わず峰子さんに声を掛けた。「かあちゃん、4耐に出るから監督やって」。「ええよ」。それだけだった。

 どうして監督を峰子さんにお願いしようと思ったのと聞くと、「かあちゃんは料理がすごく上手なんです。かあちゃんが監督なら、レース前でもおいしいものが食べられると思って」。峰子さんは走行会でもレースでも人が集まる場所には手料理を欠かさない。自分がレースを走る日でも、前日から準備して、食材を持ち込み、みんなに料理をふるまう。だから自然と峰子さんの周りには人が集まるのだ。

 「なでしこレーシング」。それが峰子さんがみんなと決めた最初のチーム名だった。

 ところが。「昨年の暮れ、ある忘年会の帰りに終電でうつらうつらしてたんです。そしたら耳元でひろ子さんが〝パウダーパフ、パウダーパフ〟って囁いて」。それが夢だったのかどうかはともかく、これがターニングポイントになって、パウダーパフ・レーシングは誕生したのである。

 2人のライダーはもちろん堀ひろ子のことを知らなかった。そんな伝説のライダーがいたことも、その人のおかげで今、自分たちがレースに参加できることも。そして「かあちゃん」が、その伝説のライダーのパートナーだったことも。しかしチーム名がパウダーパフ・レーシングと変わった途端、このチームをサポートしようという人たちがどんどん集まり始める。

 「最初は2人でコツコツとお金を貯めて、その中でできる範囲でレースに出ようと思っていたんです。でもかあちゃんが監督になって、チームの名前がパウダーパフ・レーシングになって、そしたら、手伝ってあげるよ、サポートしてあげるよっていう人がどんどん集まってくれて。それでパウダーパフ・レーシングという名前の重さに気付きました。それに、堀ひろ子さんの思いをつなぎたいっていうかあちゃんの気持ちも十分感じ取りました。だから私たちも本気で頑張らなきゃって思ってるんです」。

 峰子さんは「月並みな言葉ですけど、バイクの楽しさを伝えたい」と言う。堀ひろ子はバイクのかっこよさ、美しさ、ロマンを表現し、人々の心に植え付け、女性ライダーに道を開いた。しかしバイクの楽しさを伝えるのは、楽しみ上手な峰子さんの役割かも知れない。レースというシビアな場面では、いつもの自分でいることすら難しいのに、それを楽しむのは簡単なことではない。余裕がなくてはできないことだ。

道端の野花で作った花飾りを堀ひろ子の頭に載せようとする峰子さん。この頃の2人の距離感が見てとれる。サハラ縦断中のアトラス高原でのひとコマ。

 「私がひろ子さんと一番違うのは、歳を取ったことです。ひろ子さんが亡くなったのは36歳。私は今52歳。仕事もして子育てもして、ちょっとだけ経験が増えました。私はどう転んでもひろ子さんみたいにはなれないから、私は私のやり方でひろ子さんのスピリットを伝えたいと思ってるんです」。

 女性ライダーのパイオニアであった堀ひろ子は、誰よりも努力し、時には楽しむことは後回しにして、歯を食いしばって頑張らなくてはならなかった。そうやって女性ライダーの時代を切り拓いてくれた彼女に続き、峰子さんはバイクの楽しさを、次の世代へ伝えようとしている。

 「私はひろ子さんから言葉では言い尽くせないたくさんのものをもらいました。経験、思い出、出会い…。それらはすべて宝物です」。先ごろ大阪で行われた壮行会で、峰子さんはそう言って声を詰まらせた。本当はひろ子さんにお返ししたい。でもひろ子さんはもういない。だから峰子さんは彼女からもらったものを、次の世代に、目の前にいる2人の女性ライダーに手渡そうとしている。

 楽しさを伝える。どんな世界でもそれ以上に難しいことはない。けれど、峰子さんならできるかもしれない。なぜなら峰子さん自身が、バイクを、レースを、心から楽しんでいるからだ。そして2人の女性ライダーは、峰子さんの思いをしっかりと受け止めて、人並み以上の努力をし、当日に臨もうとしている。

 峰子さんと堀ひろ子が走った鈴鹿4耐からおおよそ30年。かあちゃんこと峰子さんは、今度は2人の女性ライダーと鈴鹿4耐に挑む。

 パウダーパフ・レーシングはどれだけこの4時間を楽しめるだろうか。峰子さんのPay it forwardは、今、始まったばかりだ。

腰山(旧姓:今里)峰子/Mineko Koshiyama
18歳の時に女性だけのバイクレース「パウダーパフ」で堀ひろ子と出会う。その後、堀ひろ子と共に鈴鹿4時間耐久レース、サハラ砂漠縦断などを成功させる。2012年は、女性ライダーのためにレースチーム監督を務めた。

2010年5月におこなわれた岡山国際サーキット モトレヴォリューションRd.2でGSX-R1000を駆る峰子さん。写真・kmhppy


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