「僕の原点はジープなんです」と、三菱パジェロをドライブして2002年と’03年のダカールラリーで総合優勝を果たした増岡 浩さんは語る。
パジェロの原点ともいえるジープは当時、三菱自動車がノックダウン生産していた。
「実家が林業を営んでいましてね。ぬかるみだろうが傾斜地だろうが進んで行って、重たい木材をワイヤーで結んで引っ張り出しちゃうわけですよ。それを見て、ジープはすごいなと思いました」
増岡 浩 (Masuoka Hiroshi)
増岡さんが最初に買ったクルマはジープだった。J58と呼ばれたタイプで、もともとは2ℓのガソリンエンジンを積んでいたが、デボネアが積んでいた2.6ℓに載せ替え、ロールバーを付け、助手席を外し、運転席はバケットシートに取り替えて競技に出た。当時、富士スピードウェイにはオフロード専用のコースがあり、そこで開催されていたシリーズ戦に出場した。
ジープ(1953)
増岡さんの走りっぷりを見て、パジェロの生みの親ともいえる人が声を掛けた。
「乗ってみないか」と。22歳のときだった。’87年にダカールラリーに出場するようになるまでは、家業と競技の二足のわらじを履いていた。初めてのラリーは、オーストラリアを縦断する’85年の第1回ウインズ・サファリラリー。グアム島で開催されたオフロードレースに出たりもした。その後パジェロ(’03年以降はパジェロエボリューション)でのダカールラリー参戦は’07年まで続いた。
「アフリカだけでも50万キロは走っていると思います。パジェロに関しては僕が一番走らせているでしょう。パジェロは人生を一緒に歩んできた戦友であり、仲間であり、家族のような存在です」
パジェロに教えられることもあったし、ダカールラリーに教えられることもあった。「転機は’88年だった」と増岡さんは言う。2回目のダカールラリー参戦を終えたところでフランスに渡り、修行する道を選んだのだ。
「いつかはダカールラリーで勝ちたいという夢を抱いていました。2回走ったところで成績はふるわず、これではダメだと思い、私財を投げ打ち、保険も解約して金を作って、競技車両も扱っているフランスの修理工場で働くことにしました。ダカールで勝つには、フランス語を習得する必要があると思ったのと、こういう操作をしたらここに負担が掛かるといったクルマの構造がわかるようになったのが収穫でした」
急がば回れ、である。増岡さんはラリーのステージでもそれを実践したが、普段の生活から、勝つために必要なことをコツコツと積み上げていった。
「常にクールに考え、冷静に判断することを覚えました。絶対に、慌てたり、焦ったりしてはダメです。ちょっとくらい遠回りになってもいいから、いい路面コンディションを探し、リスクを減らして確実に走り切ることが大事。欲をかくとろくな事はありません」
初優勝した’02年は、ナビゲーターが判断に迷った場合はクルマを止め、考える時間を与えたという。ダラダラ進んで大きなダメージを被るより、そこで3分失っても正しいルートを選んだほうが、結果的にロスを最小限に食い止めることができるからだ。「40歳を過ぎて大人になった」と笑う。
競技生活から離れた増岡さんは現在、開発車両の評価やテストドライバーの育成につとめている。
「会社に余裕ができたら、モーターを使ったモータースポーツができるといいですね。良い子チャンだったら他のメーカーさんのクルマがある。三菱自動車はちょっと強めに個性を出していいんじゃないかな。玄人好みするような」
クルマの楽しさを外に伝えるだけでなく、三菱自動車の社内に伝えていくのも、楽しさを知り尽くした増岡さんの仕事だ。