静岡県浜松市が位置する遠州地方は、繊維・楽器・オートバイといった“ものづくり”で世界に名だたるメーカーを生み出してきた。
東海道の中間という利便性や天竜川を有する豊富な天然資源を背景に、古くから職人が集まり高い技術が育まれる土壌があった。とはいえ、それぞれの分野で世界と勝負していく過程は、挑戦と失敗の連続だったに違いない。まずは、やってみる。遠州人の気質である“やらまいか精神”は、浜松のものづくりの原点であり、令和の今も生き続けている。
ソリオで行くスズキ歴史館
ものづくりの町、浜松にスズキ歴史館がある。言わずと知れた自動車メーカー・スズキ株式会社が開発・生産してきた製品を展示した施設だ。鈴木式織機製作所として創業した1909年(明治42年)から現在に至るまでのスズキの社史が凝縮された空間でもある。
館内に入ると、順路は上り階段へ向かう。天井には数十メートルもの織物が吊るされていて、それは1台の織機へつながっている。『A46片側四挺杼』と名づけられたその大型機械は、4色の横糸(杼)を通すことができるため、チェックのサロン柄という複雑な格子柄を織ることができる画期的な織機だ。この織機が生産され、国内外で稼働していたのは1950年代のことで、すでに半世紀以上も前のことだ。
「織機は耐久性のある機械で、半永久的に使えるのです。いまも愛知県にある繊維メーカーでは現役で稼働しています」
同館のキュレーターは、A46をはじめとする大型織機を前にそう解説する。
しかしこれこそが織機製造企業の宿命的な悲劇でもあった。メンテナンスさえしていれば半永久的に稼働するということは、新しい織機を開発しても入れ替えが進まず、新製品が売れない。理屈としては常に新規の顧客を開拓し続ければいいが、あくまで理屈にすぎないし、たとえそれが可能だったとしても限界はある。
織機販売が不振になった背景には、戦前に吹き荒れた世界恐慌の影響もあっただろう。主要取引先であった東南アジアや国内にも不況は波及し、経済は冷え込んでいたのだ。生き残っていくには新しい製品が必要だった。
鈴木式織機株式会社(1920年に製作所から改名)はそうして方向転換を余儀なくされた。そこで創業者である鈴木道雄は、大型織機で培った工業機械の開発と生産のノウハウを生かし、ガソリンエンジン開発へと乗り出す。時は1936年。ようやく国産自動車が製造されはじめた頃であり、日本の工業全体が激しく進化していた時代である。
それを支えたのが、鈴木道雄の信念であり、スズキの社是ともいえる言葉だ。
「お客様が欲しがっているものなら、どんなことをしてでも応えろ。がんばればできるもんだ」
がんばればできるもんだという信条と、それを支えて可能とする精神力の強さは、浜松の伝統ともいわれている。
「やらまいか」
これは浜松を擁する遠州で使われてきた土地言葉で、「やってやろうじゃないか」という気概をいうそうだ。鈴木道雄が言う「がんばればできるもんだ」は、字面は違えど意義は同質だ。
浜松は現代日本のものづくり文化の重要な土地である。その端緒は江戸時代の綿織物にあるといわれ、温暖な気候と水量豊富な天竜川という土壌に加え、江戸と大坂の中間地点であることから人々の交流や物流が盛んだったことに起因しているという。
この地域はスズキだけでなく、ヤマハ、ホンダという世界に名だたるバイクメーカーを生み出した。そしてバイクのほかに繊維と楽器が三大産業とされ、そのすべてに「やらまいか精神」が息づいているとされている。いっぽう、やらまいか精神を困難に挑戦するアグレッシブな気概、と解釈するようになったのは80年代以降という説もある。真相はわからないが、いずれにしても鈴木道雄が「がんばればできるもんだ」と織機生産から自動車生産へ切り替えたことがスズキの成功につながっているのはまぎれもない事実だろう。
スズキが最初にガソリンエンジンの試作に取りかかったのは戦前のことで、イギリスからオースチン・セブンを購入して内燃機を研究。2年後には試作1号機となる4ストローク750㏄4気筒エンジンを搭載したFRの四輪車を完成させている。しかし帝国主義政策により軍需産業へ強制的に転換させられ、自動車産業への参入を見送ることになる。
戦時中、スズキは砲弾や機関銃などの銃火器を、日本楽器(現ヤマハ株式会社)や河合楽器はプロペラや燃料タンクなどの航空機部品などを製造していた。ほかに中島飛行機や国鉄浜松工場などもあり、浜松には多数の軍需工業が集中した。
その結果、浜松は米軍の標的となり、幾度も空襲を受けて壊滅した。だが浜松の技術者や職人たちはこれを好機と捉え、焼け跡に立ち上がる。材料はなくても知恵と技術、気概がある。しかも国に作らされるのではない。自分たちが作りたいもの、人々が欲しているもの、人々の暮らしを豊かにするためのものを作れる。そういう時代が来たと考えたのだ。
スズキはかつて試作エンジンを作った技術者を集め、まずはバイク用エンジンの開発に乗り出す。そして1952年、自転車に装着する補助エンジンの市販にこぎつけた。「パワーフリー」と名づけられた空冷2ストローク36㏄単気筒エンジンが、スズキ製エンジンの第1号だ。
ところで、織機製造から自動車製造へ転身したメーカーにはスズキのほかにトヨタがある。なぜ織機メーカーが自動車を作るようになったのかは、前述したとおり織機の優れた耐久性ゆえの問題に加えて、その技術を転用しやすかったという理由がある。といっても、織機の実物(P11上写真)を見たことがないと、その経緯を想像し難いかもしれない。かくいう私もそのひとりだった。軽自動車ほどの大きな織機をスズキ歴史館で目にしたとき、百聞は一見にしかずを実感した。私が想像していたのは、ミシンよりひと回り大きな木製のものでしかなく、威風堂々と鎮座する動力織機に圧倒された。細部を見れば織機に組み込まれた鉄製のギアとシャフトの緻密さ、それらを複雑に組み合わせる叡智を見て取れる。それらが自動車のエンジンや駆動系を製造するのに不可欠な要素であることは一目瞭然だったのである。
スズキ歴史館 SUZUKI PLAZA
053-440-2020
開館時間:9:00~16:30(予約制)
休館日:月曜日 入館料:無料
当時は100以上あったといわれる日本のバイク産業だが、60年代にさしかかる頃には早くも適者生存が激化し、70年代になると残ったのはたったの4社だった。もちろんスズキはその一角だ。スズキがバイク生産に乗り出した時期は決して早くはなかったし、技術的にスズキの先を行っているメーカーも少なくなかった。しかしスズキは苛烈なサバイバルを抜け出し、ご存知のとおり、世界に名だたる二輪・四輪車製造メーカーとなっている。わずかに残った4社のうち、スズキ、ヤマハ、ホンダの3社が浜松近辺で起業したことは偶然ではなく必然だったと思われる。必然の理由はいくつかあるが、大きなひとつは「お客様が欲しがっているものなら、どんなことをしてでも応えろ。がんばればできるもんだ」という鈴木道雄の信念であり、江戸の頃より伝承されてきた浜松人の気風なのであろう。クルマやバイクというプロダクトは、ときにエンジニアのエゴが優れたものを生み出す。しかしスズキの製品群は、その知恵と技術を顧客の希望と満足のために生かしたものが実に多い。軽自動車をはじめとする小排気量車を得意としてきたのもその現れだろうし、戦後日本の復興を支えてきた大きな一翼であることは疑いようがない。スズキ歴史館は、スズキの社史にとどまらず、浜松という土地に根づいたものづくりの本質を織機とクルマとバイクという工業製品で知ることができる空間だ。もしあなたが鉄製の動力織機を見たことがないのなら、ぜひこのスズキ歴史館に足を運んで織機を目の当たりにしてほしい。近代工業の礎ともいうべき記念碑がそこにある。
スズキ歴史館への旅路で乗ったソリオ バンディットは、そんなスズキの信条をていねいに具現化したクルマだった。山賊を意味するサブネームをつけられているものの、そのつくりは勤勉実直で、若年層ファミリーの利便性と快適性を優先した設計がそこかしこにある。「お客様が欲しがっているもの」にどんなことをしてでも応えたクルマだ。丸一日、往復7時間ほど後席も含めて乗っていたのだが、広々とした空間は前後共に、頭上も足元にもゆとりがあり、1,200㏄のクルマということを忘れさせる快適さだった。
スズキ ソリオ バンディット
エンジン:水冷4サイクル直列4気筒 総排気量:1,242cc
車両重量:1,000kg
【エンジン】
最高出力:67kW(91ps)/6,000rpm
最大トルク:118Nm(12.0kgm)/4,400rpm
【モーター】
最高出力:2.3kW(3.1ps)/1,000rpm
最大トルク:50Nm(5.1kgm)/100rpm
燃料消費率:19.6㎞/ℓ(WLTCモード)
駆動方式:2WD
今回の取材で大人3名と撮影機材を満載にしたソリオ バンディットで横浜~浜松を往復しました。背の高いクルマは風や道路の継ぎ目で不安定になると覚悟してましたが、嫌な突き上げや、ふらつきはなく、このクラスのクルマとは思えない走行性能の良さに驚かされました。1,200ccの4気筒エンジンは、マイルドハイブリッドを装備していることもあって、高速道路での追い越しもストレスを感じさせません。また巡航時には全車速追従機能付アダプティブクルーズコントロール(ACC)のお陰で往復500㎞に及ぶ旅路も疲れることなく快適に過ごせました。(神谷朋公)
「モノづくりのまちHAMAMATSU」の続きは本誌で
ソリオで行くスズキ歴史館 山下 剛
本田宗一郎と天竜川 中部 博