これからのジャーナリズム

文・山田弘樹

「バガボンド」という作品がある。’98年から連載を開始した吉川英治「宮本武蔵」を題材としたマンガであり、累計4千万部以上ともいう、とてつもない発行部数を誇るだけにご存じの方も多いはずである。

 この作品は、私の心の確認の場所だ。

 作品はまだクライマックスである巌流島の決闘までたどり着いてないが、誰もが知る終焉だけに、そこは気にしていない。私が死ぬまでに完結してくれればOKだ。

 私が大切にしているのは作品の結末ではなく武蔵の成長過程(プロセス)で、ことあるごとに37巻という大作を読み返している。もう何ターン目になったことだろう。

 その旅路で、こんな一節がある。名を上げようと上京した、まだ荒くれ者だった武蔵に、名門・吉岡道場の党首であり都会人である清十郎が「時代は柳生。吉岡なんてもう古いさ」と、空を見つめポツリとこぼすのだ。

 バガボンドの作中には、こうした「剣」と向き合う姿勢が、純然たる娯楽作品だった吉川英治の「宮本武蔵」よりも明らかに多く表現されている。時代は徳川平静の世へと移り始めながらも、そこで徐々に必要とされなくなって行く剣術に己の生き方を求めた男達の苦悩や、日々の生活との乖離を、様々な形で表現しているのだ。何もそれは清十郎や武蔵といった天才、豪傑だけの話ではない。むしろ作品の中には、己の才能の無さを知りつつも剣にすがろうとする〝普通の者たち〟の心がたくさん描かれている。だからこの作品は私にとって、ひとつの光となっている。

 私にとっての剣術は、まさにドライビングだ。憧れであったモータージャーナリストという仕事を生業とできるようになって数年が経った今、本当にこのふたつはよく似ていると思うようになった。

 私は走ることが元来好きなこともあるが、クルマを扱う仕事をする上で運転の技術を磨くことは、当然必要なことだと思っていた。

 だがいつしか技術を磨けば磨くほど、運転にこだわればこだわるほど、世間との乖離が大きくなって行くような気持ちになった。

 多くの人々は速く走ることに興味すら持たず、安全に走ることはただひたすらスピードを出さないことだと思っている。ここにハンドルを切り、ブレーキを使い、アクセルを踏みながらバランスを取って走るドライビングダイナミクスという概念はない。

 これにはスピード違反による罰金の高額化や経済状況の悪化がきっかけになったかもしれないが、最近では一億総通報者の目も大きく影響している。だが人々がこの状況に飼い慣らされた結果、抑制されずとも運転そのものに興味を持たないところまで来てしまったのではないかと私は思う。

 我々の仕事である評価・評論に対しても同じことが言える。ある意味特殊技能であるドライビングは社会的な需要の低さと共に柔らかく疎んじられ、多くのジャーナリストがそれよりも利便性やプレステッジ性を中心に伝えるようになった。侍の仕事が剣術から事務方や政治へと移り変わって行ったように。

 もちろんここには、昨今のクルマの技術レベルが大幅に向上したことも大きく関係している。「いまのクルマなんて、どれに乗っても悪いものなんてない」という一種捨て鉢な評論不要論は、運転技術の向上をも不要とした。

 だからといって、それでよいのか。

 だからといって、モータージャーナリストが運転技術を磨かなくてよいということはないはずだ。「一般的なレベルでモノを語るからこそ身近な評論ができる」というのは逃げ口上だ。ではなぜそのクルマがうまく動かないのか、上手に動いてくれるのかが分からないではないか。少なくともプロの心構えとしては自身の技術力に関わらず、運転に対して真摯に向き合う必要があると思うのだが、その議論がハッキリと壇上に上がったことはない。日本のジャーナリストの運転レベルは、私も含めて低いと思う。バイクのように無理すれば転んでしまう乗りものは今でも技術の研鑽を是としているが、それゆえに市場がニッチになっていることも否めない。

 人知を超えたスピードが出せるクルマやバイクという乗りものに乗って「速く走りたい!」と思うことは本能だ。そしていくつかの挫折を経て、これを「うまく操れるようになりたい!」と思うことは成長である。

 私はその思いを捨てたくない。時代は柳生に移り変わっても、自動運転が発達しても、技術を磨き走り続けたい。なぜならクルマやバイクは危険と隣り合わせながらも、だからこそ心をふるわせ、生きる活力を与えてくれる素晴らしい乗りものだからである。


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