河西啓介 対談:河西啓介 VS 若林葉子

文・若林葉子 写真・長谷川徹

 『MOTO NAVI』『NAVI CARS』の創刊編集長として、
長きにわたって雑誌作りの第一線で活躍してきた河西啓介氏。

 人々を喜ばせたいという根っからのエンターティナーでもあり、自らを「編集職人」と呼ぶ雑誌作りへのこだわりと情熱は、クルマ、バイク好きの読者のみならず、業界を同じくする多くの人に影響を与えてきた。

ここ数年は人生最大とも言える試練にも見舞われた氏であるが、今ふたたび、前を向いて歩き出そうとしている。

若林 河西さんの原点はやはりNAVI(以下ナビ)ですか。

河西 大きな影響を受けましたね。ある種、教科書みたいな存在です。クルマそのものではなく、クルマを通していろんなことを教えてくれました。編集者が個性を持って表に出てくるというのも特徴で、その中の人に憧れを抱くというか。だから、自分も編集者になって雑誌を作る側になりたいという気持ちが自然と湧いてきました。でも当時は編集者というと花形の職業だったんですよ。

若林 河西さんは1度、ナビを落ちたと聞いています。

河西 そうなんですよ。大卒で営業の仕事に就いて4年経った頃、ナビに、編集者「若干募集」とあるのを見て受けたのですがあっさり落ちました。2、3人の採用枠に4、500人応募するというような状況でした。で、別の雑誌で1年半仕事をして、2度目に受けたら今度は採用されました。’95年、27歳の時でした。

若林 ナビへの気持ちを抱き続けてらっしゃったんですね。

河西 そうですね。ナビはクルマの雑誌ですが、ときどき二輪の記事も作っていて、当時、編集部には他にバイクに乗れる人も少なかったので、バイク少年で大型免許まで持っている僕が担当することが増えました。実は海外メーカーのバイクに乗るようになったのはナビに入ってからなんですよ。

若林 というと?

河西 初めてのバイクは50ガンマ。そのあとVT、SRX、そしてビラーゴ。そのあとはトム・クルーズへの憧れからニンジャ。900は買えなくてナナハンでした。

若林 ビラーゴとは珍しい選択ですね。

河西 そうですよね。同世代はレーサーレプリカとかですよね。8耐を観に行ったりはしましたけど、当時から、こうやって(バイクを寝かして)走るのはあんまり興味がなくて、どこか味のあるそういうバイクが好きでした。

若林 そういう感性が人より早いというか、やはり感度の高い方という気がします。

河西 そんなに偉くはないですけど、ビラーゴはかっこいいと思って買ったんですが、そのあとアメリカンが爆発的に売れましたね。

若林 クルマはアウトビアンキに乗られていたそうですし、のちにモトナビやナビカーズを立ち上げる方として、すでにそのころに方向性が確立されていたんですね。

河西 そうですね。僕の趣味って高校生の頃からあんまり変わってない。バイクもバンドもそうですが、ティーンエイジの頃の趣味を今もずーっと続けている。

若林 モトナビは最初はムックからのスタートでしたね。

河西 そうです。憧れて入ったナビ編集部ですが、4、5年やるうちにちょっと思っていたのと違ってきたなというのがあって、辞めようかなと思い始めていたんです。そんな時、編集長から何かやりたい企画があれば出しなさいと言われて、10本ほど書いたうちの一つがモトナビだったんです。僕はバイクが好きだったから、バイク版のナビがあったら面白いだろうなと。それに二輪雑誌の世界には、コアな専門誌はあってもライフスタイル的視点を持ったナビみたいな雑誌はなかったんです。ナビの企画をバイクに置き換えたらいくらでもできるなという感覚もあって。そしたらそれをやってみなさいってことになって、初めてみたらそれなりにうまくいったんです。それで季刊、隔月…と。

若林 「もういちど、オートバイと暮らす。」は河西さんの言葉ですよね。時代的にも年齢的にもみんなオートバイから離れてしまっていたときに、あれはメッセージとして読者に響いたと思います。

河西 僕の雑誌作りの根幹は、自分が読みたい本を作ろうというところにあるんです。人の考えていることは分からない。分かるのは自分のことだけ。企画を考えるときも原稿を書くときも、自分だったら読みたいか、自分だったら買いたいか。

若林 自分に向けた本でもあるんですね。

河西 僕自身、大学を出てから仕事を始めてちょっとバイクから気持ちが離れていたけど、仕事でドゥカティやハーレーに乗るとやっぱバイクっていいな、面白いんだなと思うわけです。クルマに乗ってからバイクに乗ると、バイクってこんなにメーカーによって違うんだって。エンジンの個性もね。クルマは90年代くらいから共用化が始まってきて、あんまり違いがなくなってきた時代だったので、すげぇって素直に思いました。スポーツスターなんて振動でバックミラーが見えないくらいだったし、初代のモンスターなんて本当に乗りにくいんだけど、別の良さがすごくあって、感動して。そんなこともあったので、「もういちど、オートバイと暮らす。」というコンセプトになったんです。

若林 モトナビが唯一、バイクと社会を結びつけてくれた雑誌だったと思います。バイクはやはり趣味の乗り物であって社会からは距離がある。世間からどんどん離れていってしまう特性があると思うんですけど、モトナビは普通の人の感覚と近い言葉を持っていた。

河西 四輪誌に負けない二輪誌を作りたいという気持ちと、今、そう言われてハッと思ったけど、僕自身がバイク乗りとしてはそんなに大したことはなかった。乗ってもたいして速くもなく、上手くもないし、整備もできない。めちゃくちゃいじったバイクに乗ってるわけでもなくて、いつも吊るしのバイクで街をぶらーっと走っていただけで、ライダーとして人に自慢できることもないし、誇れるものもない。でもバイクは好き。そういう人(=自分)に読んでもらう雑誌。既存のバイク雑誌には僕みたいなライダーがマッチするものはなかったから。

若林 バイクはクルマ以上に速いがエラい、ですからね。

河西 そういう意味ではそれまでのバイク雑誌に対するアンチテーゼみたいなものを作ろうと思ったというのはありますね。大したことがないライダーでもバイクが楽しめる雑誌を作りたかったという気はします。

若林 他とは全然違うことをやってらしたから、二輪業界の人たちもみんなモトナビのことは気にしていたと思います。膝は擦らないし(笑)。

河西 膝擦り禁止でした(笑)。他と同じじゃ意味ないし、違うことをやろうというのはありましたね。ナビ時代に編集長の鈴木さんに言われたことは、「クルマやバイクの試乗記事であっても一つの物語を紡ぐ。ストーリーであることが大事」と。スペックだけを羅列するのは誰にでもできるし、それは記事ではない。そのバイクに乗って自分が感じたことを一回咀嚼して、大げさに言えば、自分でどういう物語にするのか考えて書く。そういうことを意識していたので、書き手の人にもそうお願いしていました。

若林 それはすごく大事なことですよね。

河西 とにかく雑誌というのはいい写真といい文章だと思っていたから、それさえあれば別にひねったり、サブカット入れてキャプション作らなくてもいい。写真は使う点数は少なければ少ないほどいい、大きく使えば使うほどいいと他の編集者にも常々言っていて、なんてことない写真でも見開きで使ったら意味が出る。ピンボケの写真を見開きで使えばびっくりするじゃないですか。「なんだろう、これ?」って。大きく使えばカメラマンは嬉しい、編集者は楽(笑)、読者は喜ぶっていういいことづくめ、あえて単純に言えばね。

若林 専門誌とは逆の発想ですね。

若林 順調だったわけですが、2009年末に二玄社がナビを休刊することになりましたね。

河西 ええ、突然の出来事でした。年明けにナビは休刊。それに伴いモトナビもバイシクルナビも休刊、と。それは僕らの仕事がなくなることを意味していましたから失意の年末年始を過ごしました。ニュースにもなって、いろんな人から連絡が来たり、いろんな人に会ううちに、自分たちで会社を立ち上げたらなんとか続けられるんじゃないかと思うようになって。幸いにも出資者が見つかったことをきっかけに、いろんな方に協力を仰ぎ、昼も夜もなく準備をして、奇跡的に1号も空けることなく続けることができた。本当に多くの方が応援してくださいました。

若林 そして2012年にはナビカーズも立ち上げることになるんですね。

河西 2011年のモーターショーに行ったら、すごい人だったんですよ。

若林 幕張から有明のビッグサイトに移ってきた年ですね。

河西 ええ。その前のリーマンショックの時のショーは悲惨だったんですけど、この時、ハチロクのブースには人だかりができていて、クルマはまだまだいける、求められていると思ったんです。

若林 バイク少年がクルマに行って、またバイクに戻って、紆余曲折ののちまたクルマに戻る。

河西 性格的なものだと思うんですけど、僕は一つのことを極められないのかもしれません。マニアックな体質と逆ですね。広く浅く、飽きっぽくて、一つのことだけやってると嫌になったり、不安になったりするんです。それしかできなくなっちゃうんじゃないかと思っちゃうんですね。その揺り戻しがある。一方で、aheadはまさにそうですけど、僕も僕の読者も、クルマも好きだしバイクも好き。そういう人が多いし、なんなら自転車も含めてホイール付きの乗り物全部を楽しむような雑誌をやりたかった。

若林 そうやってモトナビ、バイシクルナビ、ナビカーズと長きに渡ってやって来られたわけですが、昨年末、フリーランス宣言をされましたね。

河西 はい、独立してボイス・パブリケーションという出版社を立ち上げたときも、決して出版業界にとってよい時期ではありませんでしたが、それでもモトナビやナビカーズという雑誌は専門誌の中でそれなりの存在感を放つことができたと思うんです。でも出版不況は年々厳しくなっていきました。広告がどんどん入るという時代でもなくなりましたし、とは言え、これは僕のダメなところでもあるんですけど、妥協した誌面作りができないんですね。どうしても写真や文章にこだわってしまうし、紙もそれに見合ういいものを使いたくなる。そうなれば当然製作費がかかりますし、コスト的に合わなくなる。うちのような、なんの後ろ盾もない小さな会社が納得のできる雑誌を作り続けるのは難しくなっていきました。それで少し前から、僕らの雑誌づくりを理解してくれて、資本的により体力のある会社との提携を進め、2018年に雑誌出版に関する諸々をその会社に引き継いでいただきました。編集スタッフも全員移籍することになったんです。

若林 ご自分が生み出した雑誌を人の手に渡すのは簡単なことではありませんね。

河西 そうですね。決断までにはずいぶん悩みましたし、受け入れるまでには時間もかかりました。モトナビもナビカーズも自分で立ち上げて、とくにモトナビは15年以上編集長を務めて、思い描く雑誌を追い求めてきましたから、正直、自分の手を離れていくことに踏ん切りがつかないところもありました。心のどこかで、それは読者を裏切ることなんじゃいかという気もしていたし、自分でない誰かの手に渡ることに耐えられるだろうかと思ったことさえありました。僕自身、もともとナビの読者で、それが高じて編集部に入りましたし、いちど休刊したときも「なんとかナビという雑誌を残したい」という思いでやってきましたから、いつの間にか自分自身と「ナビ」という雑誌を〝同一化〟させていたんですね。だから僕にとって雑誌を手放すというのは、大げさにいえば自分のアイデンティティを喪失するような出来事だった。でも最終的に、雑誌の出版元は変わるけど、モトナビもナビカーズも、これまでと変わらず、同じスタッフが作り続けてくれる。それは自分にとっても幸せなことなんだと、そう思えるようになりました。

若林 そんな辛い時期があったとは、知りませんでした。

河西 これまであれこれ忙しく動き回ってきた自分の行動や性格を考えると自分でも信じられませんが、悩んでいる間は誰にも会わず、ほとんどオフィスで引きこもりのようになっていた時期もありました。思い出すと可笑しいんですが、1日、一言も声を発しないこともありました。時々自分で「あーあーあー」って声が出るかなってチェックするくらい(笑)。でもやっと思い切ることができて、雑誌を移管し、自分はあたらしい道を行こうと決めたときから、気持ちを切り替えることができました。今思うと、四半世紀の間僕を育ててくれた「ナビ」という雑誌から、卒業する時期だったのかなと思います。そして昨年末にSNSを通じて、編集部から離れたこと、これからは心機一転、フリーランスとしてやっていくことを宣言しました。

若林 みなさんの反応はどうでしたか?

河西 それはそれはたくさんの「いいね!」や、応援コメントをいただいた。本当に嬉しかったですね。コメントについては、一人一人にお返事をしました。そうして「がんばります」「あたらしいことやります」と返しているうちに、一人一人と小さな〝約束〟をしているという気持ちになったんです。この約束を守らなければ、応援してくれる人を裏切ることになってしまう、そう思うほどに自分が〝再生〟していくような気がしました。いま、僕にとって人生の生き直し、リボーンのタイミングが来ているのだと思います。仕事の仲間、知り合いからもいろいろなオファーをいただいています。もちろん、aheadさんからも(笑)。モトナビ、ナビカーズは手放したけど、雑誌を通じてつながってきた人との〝絆〟は残った、それがこれからの僕の財産だし、人生においての宝物なんだと、そう思えました。そういう意味では、今回の一連のことは僕にとって試練でしたけど、とてもいい経験になったんじゃないかと。いや、振り返ったとき、そう思えるように頑張ろうと今はそんなふうに感じてます。

若林 また昔のようにパワフルになられたと感じます。

河西 そうですね。初めて社会人になったときのような気分です。50代なのに(笑)。これまでずっと、会社勤めの生活をしてきましたから、不安と楽しみと半々ですが。

若林 でも河西さんのようなバランス感覚のある方は求められていると思います。

河西 そう言っていただけるのは嬉しいけど、じつはこれからのことについて、決して自信や確信があるわけじゃないんです。これまでは雑誌編集ひとすじでやってきましたから、それ以外に何ができるんだろう、と。これからはデジタルのメディアが中心になっていくだろうし、それにともない動画などのコンテンツも増えるだろうし、そうしたことにチャレンジしていきたいかな。それと、これまでは実はあまり社交的なほうじゃなかったので、発表会や人の集まる場所にも積極的に足を運ぶようにしています。Facebookの友達申請も自分からはあまりしなかったんですけど、そういう自分を変えようと思って友達申請をしてみたり。そうすると思わぬやりとりが始まったりして、やっぱり自分から心を開かないとって思ったりね(笑)。

若林 私もものすごく人見知りなのでその気持ちよく分かります。

河西 言っちゃ悪いけど、若林さんも結構近寄りがたい感じですからね(笑)。声掛けづらい。

若林 そうですか? 私も河西さん見習って、自分から心を開けるようにやり方変えてみます(笑)。


20代の頃乗っていたMGミジェットでオープンカーの楽しさを知った。

『NAVI CARS』の企画でリポートしていたロータス・エリーゼ。

初めて所有したアメリカ車にしてヨンク、ジープ・ラングラー・ルビコン。

雑誌創刊時に自ら“もういちど、クルマと暮らそう”を実践すべく手に入れたアルファロメオ・スパイダー。

16歳のときに手に入れた初めてのオートバイ、スズキ50Γ(ガンマ)。

『MOTO NAVI』の企画でカスタマイズしたBMW

RnineTは、企画終了後、気に入って買い取ることに。

モト・グッツィV7レーサーで湘南までツーリングに出かけたときの一枚。

雑誌の仕事で海外試乗の機会も多い。これはポルトガルで行われたドゥカティ・スクランブラー1100の試乗会にて。
Keisuke Nakanishi
『NAVI』の編集部を経て、『MOTO NAVI』『NAVI CARS』を立ち上げる。創刊から一貫して、クルマやバイクのある生活の「楽しさ」を発信し続けてきた。今年(2019年)になって、エディター、ライター、コメンテーターなどフリーランスとして活動を開始した。

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