モタスポ見聞録 vol.8 キャリアとしがらみ

文・世良耕太

 1996年2月7日生まれ、フランス出身のピエール・ガスリーは’17年、レッドブルのスポンサーカラーとともにスーパーフォーミュラ(SF)にやってきた。

 ’13年にユーロカップ・フォーミュラ・ルノー2.0を制したガスリーは、’14年にレッドブル・ジュニアチームの一員になった。同年9月からGP2(現F2)に参戦。’16年にチャンピオンになった。F1にステップアップする実績としては十分である。トロロッソからデビューし、実績を積んでレッドブルに移籍するのが、レッドブル系ドライバーの王道だ。

 だが、シートに空きがなかった。そこでレッドブルは、ガスリーを修行させる場としてSFを選んだ。日本にガスリーを送り込むにあたっては、F1で縁のあるホンダに打診した。レッドブル側は、ガスリーを乗せるチームの候補をあらかじめ絞り込んでいたという。協議の結果、ホンダ直系とも言える”チーム無限”から参戦することになった。

 鳴り物入りのSF参戦には前例がある。S・バンドーンだ。’15年にGP2のチャンピオンになったバンドーンは、’16年をSFで過ごすと、2勝して年間4位を記録。その実績を引っ提げてF1に昇格し、’17年はマクラーレン・ホンダのレギュラードライバーとなっている。F1直下のカテゴリーを制してSFに乗り込んできたという意味で、ガスリーのたどる道はバンドーンと重なる。つまり、活躍して当たり前という期待のこもった目で見られるということだ。

 そんなプレッシャーをものともせず、ガスリーは活躍した。シーズン序盤は苦しんだが、第4戦もてぎで初優勝。第5戦オートポリスでも5番手からスタートして優勝した。第6戦SUGOでは 3番手からスタートして2位に入り、ランキングトップに0.5点差に迫った。F1アメリカGPと同じ週末に2レース制で行われる最終戦鈴鹿の結果次第で、逆転チャンピオンになる可能性が出てきた。

 ガスリーが調子を上げるのを見計らったように、風向きが変わった。不振のD・クビアトに替わり、トロロッソからF1マレーシアGPと日本GPへの出場が決まったのである(結果は14位完走、13位完走)。日本GPの期間中には、いったんSF最終戦と重なるアメリカGPへの出走が発表され、即座に取り消された。ガスリーは「出られるならF1に出たい」と明言した。F1昇格が約束されたガスリーにとって、1戦でも多く経験を積んでおくことは、その後のキャリアに役立つ。今年のアメリカを走っておけば、来年のアメリカGPでは有利にコトを運べるからだ。

 一方、ホンダはガスリーを日本に留めておきたかった。なぜなら、ホンダ勢でただひとりチャンピオンを争っているドライバーだからだ。’14年にSFが新規定に移行して以来、念願のタイトルに手が届く位置にいた。政治的な判断が働いたのだろう。ガスリーは結局、SF最終戦に出場した。だが、台風の影響で決勝は中止。SFのタイトルは獲得できず、F1の経験も積めずじまいで、順風満帆なキャリアに水を差された格好になった。

Kota Sera

ライター&エディター。レースだけでなく、テクノロジー、マーケティング、旅の視点でF1を観察。技術と開発に携わるエンジニアに着目し、モータースポーツとクルマも俯瞰する。

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