A boy in his 60’s 風間深志「バイクは修行。だからラクなことはひとつもない」

文・山下 剛
写真・山下 剛

風間深志。言わずと知れた冒険家だ。パリダカとバハ1000に日本人として初出場して完走。キリマンジャロ、エベレスト、アコンカグアをバイクで登っただけでなく、北極点と南極点までバイクで行ってしまった。

 そんな人間は古今東西、世界中を探しても他にいない。人類史上、地球にただ一人という稀代の冒険家である。

 そんな男ですら、数々の冒険の第一歩を踏み出すのはむずかしかったという。

 「会社を辞めることすら叶わなかったんだから」

 月刊オートバイ編集長として部数を大きく伸ばした業績があったからこそ周囲が引き止めたのだろうし、終身雇用が当然という時代背景もあっただろう。とはいうものの、風間深志ですらそうだったのだから、我々がはじめの一歩をためらうのは当然のことだと、ちょっと気が楽になる。

 「バイクで山に登ることは俺の世界だったし原点だった。キリマンジャロ(5,895m)は正規ルートで登れず、ジャングルの泥でぬるぬるの山道を押して登った。それは本当につらかった。俺はみんなを連れてきた責任もあるし、登れませんでしたと帰るわけにもいかない。ガッカリしたし、悔しくて泣いたよ。それでも4,500m地点までバイクを押して登ったところでヨシとした。心身ともに燃え尽きるほど全力を出し切れば、目標を達成した境地になれるんだ」

 そして風間は「何もあきらめたくない。やりたいことはすべてやってきた」と続ける。

 「パリダカのことはあれから35年経ってもすべての日々を覚えているほど強烈な体験だったし、つらかった。フランス語もわからないし、レギュレーションもきちんと理解してなかったから、他のバイクは大きなヘッドライトつけてるのに俺たちは6Vだよ(笑)。だから500㏄クラスで6位になったときはうれしかったし、表彰式に出るときはちゃんとした格好しなきゃって服を借りて白いズボン履いたりして出たんだ。でも6位のカップを手にしたら、いったいこれは何なんだろうって、急に陳腐なものに思えてきたんだ。俺は死に物狂いでがんばってサハラ砂漠を生き抜いてきて、人間にとって大切なのは空気と水と飯、このみっつだって痛感したし、生きてることに感謝できた。でもこれはいったい何なんだと」

 成績とは、他人に伝えるためのデータでしかない。6位ということは、それよりすごい人間が5人いたということだ。つまり客観的事実を社会で共有するための記号、それが成績ということに風間は気づいたのだという。

 「俺はプレイヤーじゃない。常にチャレンジャーなんだ。大事なのは自分の世界観の中に自分がいることで、他人にどう見られようが関係ない」

 新しいことに挑戦しようとするとき、未知の世界へ一歩を踏み出すとき、人は失敗を想像して臆してしまう。想像力は人に無限の可能性を見せるが、逆もまた然りである。

 「俺が怖いのはお化けだよ」

 風間はそう言って笑う。お化けとはまさしく想像の産物である。そして自分の内面の弱い部分を具現化したものがお化けなのだと風間は言う。

 「自分にとってバイクとは何かというと、自然の魅力を感じられる乗り物であること。地平線が俺のバイク観にふさわしい情景で、だからこそどこまでも追いかけて行けた。ゴールのダカールで大西洋の水平線を眺めているとき、だったら極点まで行ったらバイクを下りられるんじゃないかと思ったんだ。バイクは修行だから、ラクなことなんてひとつもない。下りられるものなら下りたかった。だから北極点まで行けばバイクを下りられると思ってたんだけど、そうはいかないんだね」

 地平線を追いかけてその頂上までバイクで行ったが、そこに広がっていたのは〝究極の地平線〟だった。

 「地表には北も東も西もなくて、どこを見ても南。在るのは太陽と地球と自分だけ。宇宙とか空間の世界だ。地球という惑星の表面を、月から見ている感覚だった。するとどんどん視点が遠くなっていって、月から太陽系へ、太陽系から銀河系へと、旅は空間へ無限に続いていくんだ。バイクの旅というのは、つまり球面をなぞることなんだと思えた。それでもう極点はいいやと思ったんだけど、5年後には南極点に行っちゃった。着いてみたら上下が逆になっただけでやっぱり同じだった」

「自然の無限なる広がり(水平地平)と高さ(垂直地平)をバイクで追ううちに、地平線の終着駅となる(地平線が一点に交わる)南北の「極点」に向かわなければ、自分の目指す「バイク道」は永遠に収束しない」という考えが発端となった北極行。ヤマハTW200を2ストローク化して北極専用に作られたノースポール・スペシャルマシンで挑んだ。”究極の悪戦苦闘”の末、出発から47日目、ついに北極点に達した。写真・佐藤秀明

 しかし南極点で風間が新たに感じたのは、不自由さのなかにあるしあわせだったという。

 「方位が北しかなく、白夜が続いて夜がない夏の南極点で空を見上げていると、上下感覚も時間もなくなる。すると何を基準にして自分の存在をたしかめればいいのかわからなくなるんだ。基準があるから生命が生まれて進化してきたわけだから。今まで当たり前にあると信じてきた概念や現象が消えてしまった世界。上下や夜や方位があるから俺たちは生きていけるんだ。その〝安住のゆりかご〟がなくなると、どう生きていけばいいのかもわからなくなる。夜が来ることはしあわせだし、基準はありがたいものなんだ」

 南極点で風間が感じた不安は、恐怖にも似た感情だったのだろう。

 そしてバイクでの南極点到達から12年後。22年ぶりに出場した2004年のパリダカで、暴走してきたトラックと衝突。左足に負った重傷が障害となって残った。左下肢の可動範囲が極端に狭く、膝も足首も曲がらない。動かそうとするたび激痛に襲われる。

 「怪我をして健康を失ったとき、健康ほど大事なことはないと思った。だからといって敗者ではない。これは新たな個性を手に入れたんだと考えるようになった。むしろ障害を持っている人間のほうがひとつ壁を超えているぶん……泣くんですよ。自分はダメだととことん泣いて、泣き尽くして涙が止まったとき、自分の機能的障害を受け入れて、そしてまた強くなれる。だけどそれまでに何度も泣いたし、怪我を眺めながら一生車椅子かなと不安になったりね」

 数度の手術によって歩くことはできたが、階段でも苦労するほどで、走ることはできない。スクーターや自転車には乗れるがバイクには乗れない。歩くたびの激痛も止まらない。そんな状態で今までのような冒険などできるはずがない。

 「何もあきらめたくない」

 常にそう考えている風間には、左足が動かないから冒険をやめるという選択肢などなかった。国連やWHOが協調し、運動器(身体活動を担う筋・骨格・神経系の総称)の疾病や障害、リハビリの研究と進歩を目指す「運動器の10年世界運動キャンペーン」の一環として冒険をはじめた。’07年はスクーターによるユーラシア大陸横断18,000㎞。’08年は四輪駆動車によるアフリカ大陸縦断21,000㎞。’09年は3人の障害者とともに自転車でのオーストラリア大陸横断5,150㎞。’10年は100人の障害者による日本縦断駅伝2,300㎞の全行程に自転車で伴走しただけでなく、スクーターと電動アシスト自転車による南北アメリカ大陸縦断20,000㎞を走破。’12年には日本縦断障害者駅伝3,000㎞に帯同。左足を引きずり、激痛に耐えながらすべての冒険を成功させた。

 さらに、’13年には風間を含む5人の障害者とともにキリマンジャロ登頂を目指し、成功させた。障害者とともにモンゴルのゴビ砂漠へ行き、ラクダに乗ってキャラバンもした。

 「怪我をしてなかったら他人を巻き込んでない」

 ひとりでの冒険ができないなら、誰かと一緒にやればいい。自分と同じように障害を抱える人たちと冒険をして成功すれば、彼らと一緒にまたひとつ強くなれる。風間は常に前を向き、走り続ける。

 「今までに18回手術したけど、それでも走れないし、膝も足首もあまり曲がらない。筋肉も落ちてしまっている。ステップに立てないからバイクにも乗れない。小さな子供が走り回っている姿を見ると、いいなァと思うよ。でも、まだまだ弱いなァとも思う。なんとも思わないようにならないとね。他人と比較してるようじゃダメなのよ。これでも俺は生きているんだ、全然大丈夫なんだとモチベーションを保てるようになるまで10年以上かかる。その領域に達した人たちがやっているパラリンピックは美しいね。誠心誠意だし、ものすごくがんばっているから」

’84、’85年にはオートバイによるエベレスト登頂に挑戦する。’84年はネパール側から挑戦。プモリ南稜でバイクによる高度5,880mという世界記録を樹立。’85年は中国側から再度挑戦し北壁直下で高度6005mを達成。世界記録をさらに更新した。写真・佐藤秀明

 バイクはつらいばかりでラクなことはひとつもなかった、と風間は言った。つらさを乗り越えると人は強くなる、とも言った。

 「つらいことをつらいと言わずに、もうやめたって言う瞬間までが自分との戦い。だからがんばろう、まだ力を出し切っていないじゃないか、この姿をみんなが見てるんだ、とあらゆる状況の中で自分を客観視するわけさ。それは我慢の限界を伸ばしていく訓練なんだ。自己主張しないこともそう。逆境や試練を自分の中に受け入れていく作業は、意味のないことに思えるけど、実はいちばん意味のあること。自然の中でなんとかして生きる糸口を探していくことはものすごく大事なんだ。世界全体が不安定な現代だからこそ、冒険する意味と価値が高まっているんじゃないかな。これからは冒険家の時代だよ」

 SSTR(サンライズ・サンセット・ツーリング・ラリー)、ザ・ラウンド・4ポールズ(日本4極巡り)といった一般ライダーがそれぞれの冒険を作れる参加型イベント、三男の風間晋之介と親子で参戦したバハ1000や晋之介のサポートで行ったダカールラリーがそうだ。障害者たちと一緒に南極点を目指す冒険の計画も進めている。

SSTR(サンライズ・サンセット・ツーリング・ラリー)。「日本列島の東海岸を日の出とともにスタートし、日没までに千里浜にゴールする。ルートは自由、バイクは排気量・車種を問わない」というシンプルなルール。第5回となる2017年は、1800台あまりが参加した。今やバイクの一大イベントに育っている。現在、SSTRに続くイベントとして2019年に向けて日本4極巡り(The Round 4 Poles)を計画中。
www.round4poles.com

 「ラクと楽しいは違うんだ。どれだけ苦しくてもつらくても、バイクで走ってるほうがしあわせ。だけど晋之介と交代しながら走ったバハ1000の一晩が精一杯。悔しいよ。でも治ればまた乗れるようになる」(*)

 今秋、風間は19回目の手術を受ける予定で、うまくいけばまた自分でダカールラリーを走りたいと意欲をみせる。バイクを走らせられないもどかしさに耐えつつ、その限界をじっと高めているのだ。

 風間深志は、決してあきらめない。

Shinji Kazama
1950年山梨県生まれ。冒険家。1980年のキリマンジャロ・バイク登攀を皮切りに、82年パリ・ダカールラリー日本人初参戦、総合18位。’84、’85年世界最高峰エベレストに挑み高度6,005mの世界高度記録。’87年北極点到達。同年ファラオラリー250クラス優勝。’88年アコンカグア峰にバイク登攀、高度6,750m。’92年南極点到達などなど。NPO法人「地球元気村」代表。’08年よりWHO運動器の10年国際親善大使就任。
www.kazama-world.com

*度重なる手術によって風間の左足の状態は少しずつ回復しているが、ラリーや冒険クラスの激しいバイクライディングはいまだ激痛と困難を極める。運動器の10年キャンペーンでの自転車には電動アシスト自転車を利用した。

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