勉強はおろそかにするな。バイトは禁止。カートに乗ることは許可する。ただしレースに使っていいのは月に4万円まで。それがレーシングドライバーを夢見る息子に対して父が課したルールだった。
息子が望むならそれを止めない代わりに必ず一定の条件を出す。いつの頃からか、それが土屋武士の父、春雄の流儀になっていたのだ。
しかしそれは無理難題にも近かった。ありきたりな「勉強はおろそかにするな」という条件ひとつ取ってもそうで、カートを始めたいと言い出した中学2年生の土屋に、春雄は「湘南(高等学校)に合格したらかまわない」と返したことがそれを如実に表している。というのも湘南高校と言えば偏差値70を軽く超え、神奈川県内でも5指に入る進学校。普通の中学生にとってそれは条件に成り得ず、体よく「あきらめろ」と言われているのと同意だからだ。
しかし、土屋は普通ではなかった。とにかくレースの世界に足を踏み入れたい一念で猛然と勉強を始めると、その1年後、本当に合格通知を受け取ってみせたのである。生まれ持った資質なのか、そもそも土屋の中にはできない理由を探すという思考回路がない。常にあるのは、どうしたらできるか。どんな方法があるのか。そのためにはなにが必要なのかというロジックで、土屋にとっての「普通」を、多くの人は「執着」や「執念」と呼ぶ。
「もしもそれを執着というなら親父には全然敵わない。あの人が目指しているのはいつでも一番になることで、それに向かう時のパワーはほとんどバケモノ。しかもまったく計算がなく、ただ自分がそうしたいから、ただ誰にも負けたくないからというピュアな気持ちに突き動かされて行動している。それが土屋春雄という男の変えられない生き方なのでしょうね」と土屋は言う。
事実、春雄が立ち上げた〝つちやエンジニアリング〟は町工場を母体にするレーシングチームでありながら、圧倒的な資本と組織で編成される大メーカーのワークスに真っ向から対峙し、幾度も勝利。最強プライベーターと呼ばれるにふさわしい戦績によって日本のモータースポーツ界に長く君臨してきた。
だからこそ春雄は戦う相手が息子であってもまったく容赦しない。例えば、’99年の全日本GT選手権(現スーパーGT)でのことだ。ニスモの契約ドライバーとして日産・シルビアを託され、GT300クラスでシーズン3勝をマーク。ランキング1位で最終戦を迎えていた土屋に、春雄率いるつちやエンジニアリングのトヨタ・MR2が僅差で追いすがるという緊迫した展開のさなか、突如春雄はそれまで使っていなかった新しいシステムの導入を決断した。その奇襲とも言える戦略によって春雄の手掛けたMR2はシルビアの順位をひとつ上回る3位でゴール。結果的にそれが命運を分け、1ポイント差ながら文字通り土屋の目前でタイトルを奪い獲ってみせたのだ。
息子のビッグタイトルの可能性にも敢然と立ちはだかり、全力でツブしにかかる。そういう勝負への執着はしかし、確実に息子にも受け継がれ、土屋ならではの不屈のスタイルになって表れている。
難関高校に合格したこともその片鱗だが、実際にカートを始めるようになると土屋の一途さはさらに増していった。まだクルマの免許はなかったため、車体はカート場のガレージに預け、走行を終えるとエンジンを降ろして自宅に持ち帰ってメンテナンスし、今度はそれをリュックに入れて電車とバスを乗り継いでカート場へ持ち込んで現地で載せてから走る。それをひとりで繰り返しながら春雄の手際を見よう見まねでエンジンのオーバーホールを覚え、月に掛けられる4万円をレースのエントリー代やパーツ代、タイヤ代に割り振りながらわずかな残金を練習に充てた。その過程でシリンダーやピストンといったパーツの使用時間とそれによって変化するクリアランスを管理。最もパワーの出る数値を記録して、それを決勝用に温存しておく…という方法も学んでいったのだ。
時間もコストも闇雲に掛けられない厳格な条件の中での苦肉の策とも言えたが、メカニック、ドライバー、マネージメント、エンジニアといったチーム運営にかかわるすべての役割をこの頃からすでに経験し、規模の大小こそあれ、それから四半世紀以上経った今もやっていることは変わっていない。
そんな風にして身につけたデータの管理と分析能力に加え、高い身体能力も持っていた土屋はポテンシャルに勝るヨーロッパ製のカートを相手にヤマハで孤軍奮闘。高校3年生の時にはシリーズチャンピオンに輝き、順風満帆なドライバー人生を歩み始めたかに見えた。ところが、2度目のチャンピオン獲得までには実に25年という月日を要したのである。
高校の卒業を控えた土屋はプロのレーシングドライバーになるため、その年の卒業生の中で唯一働くことを選んだ。アルバイトを掛け持ちしながらレース資金を貯め、機を見てFJ1600(フォーミュラの入門カテゴリー)でデビューをするつもりでいたが再び春雄から「簡単に金を稼ぐことを覚えるな」という一風変わった条件が出されたのである。
それは条件というより道しるべと言え、目先のお金にとらわれて経験や知識の裏付けがないまま車両に乗るより、まずその構造を学び、自分の手でメンテナンスやセッティングもできるようになっておいた方が結果的に近道になる、というある種の親心でもあった。
その意を汲み取った土屋は春雄の元で働くことを選び、時に家庭教師のアルバイトもしながら2年間でなんとか400万円を貯金。満を持してFJ1600を手に入れると、オートポリスで迎えたデビュー戦を優勝で飾ったのである。
結果だけ見ればレース界のサラブレッドが成した鮮烈なデビューウィンと言えるが、そこに至る過程を見ればエリート街道とはほど遠い地味で泥臭いものだったと言える。マシンのポテンシャル的にもチーム体制的にも走行時間的にも土屋に勝てる要素が揃っていたかどうかは怪しい。それでもなお最良の結果が残せたのはやはり執着の成せる技に違いない。
なぜなら、F1まで登りつめたドライバーの多くが若かりし頃にデビューウィンを飾っていることを知った土屋は、自分もそうあらねばならないという条件を自らに課し、なにがなんでもそれをクリアすることにこだわったからである。
あきれるほどのシンプルさながらここぞという時に爆発的な集中力を発揮すると、それ以降も自分の描いた未来予想図をトレースするように着々とステップアップ。全日本GT選手権では日産とトヨタ両メーカーのワークスシートを掴み、ル・マン24時間も経験した他、フォーミュラニッポン(現スーパーフォーミュラ)では7シーズンに渡ってフルエントリーを果たすなど、トップドライバーの地位を維持し続けたのだ。
しかし、土屋はどうしてもトップカテゴリーでは勝てなかった。GT300では4勝をマークするも、最高峰のGT500では2位を4度経験したにもかかわらずその上には行けない。フォーミュラニッポンに至っては2位を5度、’02年には4度という年間最多ポールポジションを記録しながらも、やはり未勝利に終わっている。
土屋から勝利を遠ざけ、ツキを奪い、心を苦しめたもの。それは自身が父親になったことだった。自分の存在意義をスピードで証明できていた頃は、いつかそれを失うことに恐怖を覚えたが、子供が生まれてからは死ぬことへの恐怖がそれを上回るようになったと言う。無論、当時の土屋はそれを認めることはできず、プロドライバーらしくあろうと気持ちを奮い立たせ、恐怖心に蓋をしながらアクセルを踏んだ。そして気がつけば心のバランスを崩していたのである。
そんな土屋の心を解きほぐしてくれたのが、「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる」という言葉との出会いであり、それを耳にした時、様々な思いにがんじがらめにされていた自分に気づくことができた。嫌ならやめればよく、その代わりやるなら徹底的にやろうとシンプルに考えられるようになったのだ。未来は自分次第、すべては今なにをして、どうなりたいか。思えばそれは父、春雄の生き方そのものと言っていいだろう。
やがてスランプを脱した土屋は速さを取り戻し、勝利を重ねていった…とはすぐにならず、実際のストーリーはもっと浮き沈みのあるドラマチックなものになった。
土屋は’06年にGT500のトップチームであるトムスを離れ、フォーミュラニッポンでも’08年にシートを喪失。そしてその同年、つちやエンジニアリングは世の中の時流にあらがえず活動休止を余儀なくされるなど、親子はそれぞれの立場で苦難を強いられていた。
土屋はGT300に活動の場を移してレースを継続していたものの、その一方で徐々に胸の内で膨れ上がってきた思いが「今なにをすべきなのか」というものだった。それまでは走る場があり、勝利を目指す環境があれば満足できた。
しかしながら、それもこれも自分を支えてくれる人がいて、その人が継承してきた技術とスピリッツを発揮する場があったからこそ。それを次世代に繋ぐことがモータースポーツ文化のあるべき姿にもかかわらず、その土台になってきた町工場が衰退し、文化を作ってきた人の活躍の場が取り上げられ、人が育つ環境も失われつつあるのは絶対に間違っている。そう思うようなったのだ。ならばそれを取り戻すことが土屋春雄の息子としての使命だとし、新たな道を模索し始めたのである。
そのためにまずやるべきことはつちやエンジニアリングの復活と決め、少しずつ下地を作り始めていた中、’14年にひとつの転機が訪れた。それがGT300用に新たに開発された「マザーシャシー」と呼ばれる車両の登場だった。これは初期のコストを低減し、プライベーターの技術を活かすことを想定した新規定のマシンで、土屋にとっては自分たちの技術とアイデアが活かせる理想のマシンに思えた。そこに手応えを覚えた土屋は’15年からは自分のチームを立ち上げてスーパーGTに参戦することを決断し、監督として春雄を招聘。自身はドライバーとエンジニアを兼務し、ペアドライバーにはフォーミュラトヨタ・レーシングスクール講師時代の教え子でもある松井孝允を迎え入れ、新生つちやエンジニアリングの再スタートが切られたのである。
やると覚悟を決めて全力でやり抜き、今の時代にワークスに立ち向かう夢物語が実現できたなら、それこそが技術とスピリッツの継承の場になるはず。そんな思いで突き進んだチームは、復活初年度の’15年にポールポジション1度、優勝1度というリザルトを残しランキング10位を獲得。そして’16年には1位を2度、2位と3位をそれぞれ1度ずつ記録し、チームとしては17年振り、土屋にとっては初のビッグタイトルがその手中にもたらされることになったのである。
傍目には勝てるパッケージではなかったはずだ。しかし春雄がずっとそうしてきたように、かつての土屋がそうであったように、誰もがそれを疑いもせず、持てる力のすべてを出し切ればなにかが起こると信じながら勝負に執着し続けた結果、本当に奇跡を起こしてしまった。
最終戦はその縮図とも言え、レース序盤は10位まで陥落。誰もがタイトルを絶望視する中、土屋はやるべきことを完璧に遂行。その思いを受け取った松井は1台、また1台と追い上げ、大逆転でのトップチェッカーを果たしたのだった。
ドライバーとしてのラストシーズンをこれ以上ない完璧なカタチで終えた土屋がこれから先なにに執着し、どんな方法でそれを実現するのか。つちやエンジニアリングが見せてくれるのは、人の思いがもたらす無限の可能性に他ならない。
Takeshi Tsuchiya